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マンガが若かった頃の熱気、そして苦さの記録:『COM 40年目の終刊号』

先月中頃のことですが、たまたま書店で見掛けた『COM 40年目の終刊号』を買いました。


COM 40年目の終刊号

COM 40年目の終刊号


マンガの歴史に大きな足跡を残すマンガ家を多数輩出し、後のコミックマーケットにも大きな影響を与えた雑誌「COM」に関する証言・コラム・エッセイ等が集められた本です。


「COM」という雑誌については、名前を知っている程度です。自分が生まれる遙か前(1967年)に創刊し、そして休刊(1971年、1973年に1号だけ復刊)してしまった雑誌なのでそれは致し方ないところかもしれません。
この雑誌は虫プロダクションが発行した、「まんがエリートのためのまんが専門誌」というキャッチコピーを冠したマンガ雑誌です。「まんがエリート」という言葉に何か気恥ずかしさを感じてしまったりもする訳ですが、それは当時のマンガを廻る諸状況も密接に関連してくるかと思いますし、*1自分が既にそれなりに年を取ったからかもしれません。大半の「COM」に携わった方々の当時の年齢は、今の自分と同じくらいかそれより若いかでしょうからね。('A`)


今の自分を顧みて忸怩たる気分になるのはひとまず措いといて、さすがに自分が生まれる前のことを体験することは不可能なので、それについて知ろうとするならば当時を知る方の話を聞くか、或いは当時のできごとを記録したものを参照する他はない訳です。
(ある程度は)歴史好きということもあり、こういった書籍が刊行されるのは非常に嬉しいことであります。



前置きはこの程度にして、ある程度内容に触れておきましょう。
まずは「COM」に掲載された作品が幾つか再録されています。冒頭を飾るのは手塚治虫火の鳥第八部 望郷編1』。手塚先生は自作を何度も描き直しをすることで有名で、研究者泣かせの方でありますが、この『望郷編』は自分が読んだ『望郷編』(角川文庫版)とは殆ど何も共通点がないレベルで、読んでいて実に新鮮でした。


火の鳥 (6) (角川文庫)

火の鳥 (6) (角川文庫)

手塚治虫の奇妙な資料

手塚治虫の奇妙な資料

(描き直しについてはこちらに詳細が。)


続けての掲載は石ノ森章太郎(当時は石森章太郎)先生の『ジュン』。ジュンという少年の精神的な漂泊が殆ど台詞なしで描かれる実験的な内容で、代表作のひとつとなっています。非常に高い評価を受けつつも、師匠であり掲載誌「COM」の看板でもある手塚治虫に批判され、ショックを受けて掲載を止めてしまったが、後日手塚先生自ら「石森氏の才能に嫉妬してあのようなことを言ってしまった」と謝罪に来た、というエピソードを後に何かで描いていましたね。手塚先生が亡くなった際の追悼マンガでしたか?


この本に掲載されているのは、『ジュン』のエピソードの中でもとりわけストーリー性の薄い、歴史に名を残す芸術家の作品とジュンの姿をコラージュしたような図像が続けざまに描かれる「たそがれの国 遠い日のジュン」です。


併せて収録されている、これまでの『ジュン』について語られた内容とはかなり毛色の異なる解釈を打ち出しているコラム「ファンタジーワールド ジュン 〜解題〜」も必読です。



そして永島慎二先生の『シリーズ黄色い涙 青春残酷物語4 フーテン』。私小説の色合いの濃い、高尚な(少なくともそう見える)理念・理論を振りかざしつつも、自堕落な生活を続けている様子が描かれています。これが圧倒的な支持を集めたというのも、やはりこれが描かれた当時の世相・文脈みたいなものを抑えておかないと難しいのかもしれませんなぁ。



他にも、当時「COM」に作品を描いていたマンガ家さんのエッセイマンガ、当時の担当者による回顧録、そして2009年・2010年に開催された「COM関係者座談会」も収録、発刊当時の作家・編集者・読者の熱気を伝える貴重な証言となっています。とりわけ座談会における真崎守さんの発言は、「ぐら・こん」*2の誕生に至るまでの詳細な歴史と言えるかと思います。


しかしながら『40年目の終刊号』において特徴的なのは、単に当時の熱気を礼賛するような論調だけではないという点だと感じます。むしろそれが大事。
当時の苦い想いについても、かなりの紙幅を割いているのですね。


2代目COM編集長を務めた石井文男氏の回想録では、当時「"こんな本があったら面白いだろうな"という軽い気持ち」*3で編集を担当していた石井氏が、虫プロの経営悪化により「売れる雑誌」を作ることを求められ雑誌のリニューアルに携わるエピソードが綴られます。仮に韜晦が含まれているとしても、文章全体から少なからぬ後悔の念が滲み出ています。


156〜157ページの「40年目のぐら・こん支部だより 北海道支部」では、「ぐら・こん」支部内ではマンガ論争に躍起になり、またほんとうにマンガ家になりたい人は制作に時間を割くためグループ活動が疎かになり、「ぐら・こん」に掲載するための作品がまったく集まらなくなるという、「ぐら・こん」を立ち上げた趣旨とは正反対の結果に陥り支部が空中分解していった経緯が記されています。


そして若さ故の過ちと言いますか、この時期に経験した「苦さ」を最も強く描いているのが、芥真木さんによる回想マンガ『PTSD@COM』*4だと思います。
COM新人賞に入賞した芥真木さんが、同じく新人賞に入選したメンバーばかりで結成された同人会「ミノ」において取った行動を綴った、懺悔とも言える内容です。



(前掲書83ページ。)


芥真木さんは「ミノ」のメンバーを見て「新しい何かが生み出せるかもしれない」と感じます。しかし実際に行っていたのは喫茶店でマンガ論をぶつけあうことくらい。そして同人誌を作ろうという流れになり、プロを目指している芥真木さんは苛立ちを募らせ、怒りを感じるまでになる。上の画像は、「仲良しクラブ」にしか(芥真木さんには)見えない「ミノ」を批判している場面になります。
そしてその批判は更に強まり、檄文に近い手紙をメンバー全員に送ったことが原因となり「ミノ」は解散することになる。その後に訪れた後悔、そして謝罪を未だにすることができないという告白で回想は締めくくられます。
読後感はひたすらに苦い。



しかしながら、変に神話みたいにしてしまうのではなく、(主観は伴いつつも)可能な限り正確な記録を残そうとする姿勢が素晴らしいと思う訳です。



と、随分長くなりました。
マンガが若かった頃の熱気と若さ故の過ちが凝縮したかのような雑誌「COM」を廻る貴重な証言が詰まっている『COM 40年目の終刊号』、お薦めの1冊です。


あとは「spectater」で連載している「証言構成『COMの時代』」が書籍になってくれれば完璧ですね。不定期刊行の雑誌なのでいつなるのかは判りませんが。(´ω`;)
という訳で、今回はこのあたりにて。

*1:「COM」発刊の何年か前には劇画の残酷描写が槍玉に挙げられたりするできごともあったりして、当時は現在より遥かにマンガに対する風当たりが強いです。また、手塚調の絵柄とは一線を画した、劇画を嚆矢とする新しいマンガ表現が出てきて、衝撃を受けた読者がマンガを描き始めたり熱く語り始めたり・・・といったことが起こり始めた時期とも言えましょう。読者の感覚と世間一般の認識のズレが、「まんがエリート」という言葉を使わせたのかもしれないなと思います。

*2:「COM」に設けられた、アマチュア作品の投稿コーナー。当時は投稿を受け付ける雑誌が殆ど存在しなかったようで、「ぐら・こん」から後に有名になるマンガ家の方々が多数生まれました。また、全国でバラバラ同人活動をしているマンガ好き(作家・読者・批評家・マンガ家志望の人etc)のネットワークを作り、そこで制作した作品はCOM誌上で発表するという、全国初のマンガ同人全国組織の構想を持ったグループでもあったそうです。

*3:霜月たかなか編『COM 40年目の終刊号』114ページ。

*4:同書82〜85ページに掲載。