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マンガLOG収蔵庫・別館

本館のバックアップとして使用しています。

「漫画を読めない子ども」に関するあれこれ

何日か前に、ネット上で以下の記事(toggetter によるまとめ)が話題になっていました。


そろそろ昨年末の冬コミで購入した評論同人誌の感想を書き始めようかと思っていたのですが、幾つか気になる点があったのでいろいろと書き連ねてみようかと思います。


  • 1:「漫画を読めない子ども」の話のソースはあるのか


まず、上のまとめ記事で「漫画を読めない子ども」の存在自体に懐疑のまなざしを向けられている方がいらっしゃいます。その論拠として、「実例をみたことがない」「まともなソースの記事を読んだことがない」という点を挙げています。
これに関しては、後者については、一応あると言えばあります。
ノンフィクションライター・中野晴行さんによる『マンガ産業論』です。


マンガ産業論

マンガ産業論


マンガ産業論』に以下のような記述があります。少々長くなりますが引用させて戴きます。

 

これはある学習塾の先生に聞いた話だが、最近ではマンガを読んでいる生徒はむしろ優秀な生徒なのだという。普通の生徒たちにとって、マンガを読むことすら難しくなっているのだ。一つの理由は、最近の少年週刊誌のマンガが小学生には高度すぎることだが、もう一つの理由は、ゲームで育った子どもたちの多くが、マンガの文法を理解できないというのだ。
 第三章にも書いたように、マンガを読めない子どももアニメは理解できる。というよりもアニメは好きだ。アニメは受け身でも、ちゃんと話し、動いてくれるからだ。しかし、マンガは能動的に読むという行為をしなければならない。低学年からマンガに親しんだ子どもは、自然にマンガを読むための文法を身につけている。それは単純で身近なマンガから入って、だんだん高度な文法やテーマに出会うからだ。
 しかし、幼い時期にマンガ体験を持たない子どもがそのまま成長すると、四、五年生になっても、フキダシやコマ割り、流線といったマンガ独特のルールが分からない。そんな子どもが増えている、というのだ。
 かつて活字離れが進んだ時代に、マンガなら読んでもらえるだろうと、ハウツウものの本などをマンガに置き換えることが流行ったが、もしかすると近い将来には、そのマンガすら読まない、いや読めない若者が増えるかもしれないのだ。


中野晴行マンガ産業論』191〜192ページ。


この本が出版されたのは2004年、今から8年近く前ですが、上記リンク先のまとめと類似していることがお判りかと思います。一連のまとめの発端となった方と、中野晴行さんが共に学習塾の先生から聞いているという点まで共通していますね。


ただ、『マンガ産業論』は戦後〜2004年頃までのマンガの歴史を、膨大なデータ・資料を駆使して産業面から概観した労作で、名著と呼んで差し支えない作品なのですが、上のくだりについてだけは伝聞情報に留まっており、ソースとしては些か弱さがある。その点は惜しまれるところです。


  • 2:「マンガは子どもであっても読めて当然」と思い込んではいないか・それを前提条件に考えていないか


ソース云々の話はこのくらいにしておいて、上記まとめで問題なのはタイトルではないかと思います。『漫画を「読めない」子どもが増えている』。このタイトルの裏側には、マンガは子どもであっても読めて当り前、と捉えている節が伺えなくもない(実際どうなのかは判りませんが)。
ただ、仮にそう捉えていたとしたならば、それは大きな誤りであると言わざるを得ません。マンガは実はかなり複雑な文法が存在し、それなりの数を読まないと読み方は身に付きません。


実体験を書きますと、自分は確か小学3〜4年の頃に初めて少女マンガ、高河ゆんさんの『アーシアン』を読んだのですが、何が描かれているのか殆ど理解できなかったのですね。少年マンガとはまるで異なるコマ割り、独白の多用、細かな機微の表現、それらが錯綜する画面構成、まるで読み取ることができなかった。マンガの文法はほんとうに複雑なのです。


しかしながら、複雑な文法を理解するためには、まず基礎を固めるのが重要である筈。そのためには、子どもでも簡単に読めるマンガから入って、徐々にマンガに慣れていくのが順当でありましょう。まとめ記事内でもマンガ家のうぉりゃー!大橋さんが「漫画の入口にふさわしい漫画」の重要性を語っていますね。


ここで昔のマンガを幾つか例に挙げてみましょう。



藤子・F・不二雄藤子・F・不二雄大全集 初期少女・幼年作品』8ページ。)

藤子・F・不二雄大全集 初期少女・幼年作品集: 藤子・F・不二雄大全集 第2期

藤子・F・不二雄大全集 初期少女・幼年作品集: 藤子・F・不二雄大全集 第2期


上の画像は、『ゆりかちゃん』という作品の冒頭です。ヒロインのゆりかちゃんがおばさんの家を訪ねるも留守で、それならばと帰ろうとするも、留守番をしている子どもたちに引き止められる・・・という場面になります。
それぞれのコマに注目してください。ノンブルが振られていますね。読む順番を教えてくれている訳です。『初期少女・幼年作品』には1955年前後の作品が主に収録されていますが、その殆どの作品のコマにノンブルが振られています。数少ない例外『春子の日記』は1960年の作品で、少し年代が下ります。


この「コマを読む順番を教える」ノンブル入りのマンガは、雑誌の方針とかも影響しているかもしれませんが、60年代半ばにも存続しています。


次はこちら。



石ノ森章太郎サイボーグ009別巻 009 a la "cult"』8ページ。

サイボーグ009 (別巻) (秋田文庫)

サイボーグ009 (別巻) (秋田文庫)


これは、雑誌「たのしい幼稚園」に掲載された『サイボーグ009(たのしい幼稚園版)』になります。001ことイワン・ウイスキーが襲い掛かってくる恐竜型サイボーグの分析をしている場面になりますが、フキダシ内のすべての台詞が平仮名・カタカナで表記されており、しかもカタカナには平仮名でルビが振られているのがお判りかと思います。当然コマ右下にはノンブルが表記。
因みに1972年の作品となっています。


マンガを読むことに馴れてしまっていると、逆に読みづらく感じてしまうほどの親切設計であることがお判りかと思います。このようなコンセプトで描かれた作品は、確かに大幅に減っているように感じられます。そう考えると、確かに現在のマンガの状況は、これからマンガを読んでいこうと思っている(主に)子どもたちにとっては、幾分敷居が高いのかもしれませんな。



と、適当に書き連ねたところで、本日はこのあたりにて。