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時折マンガの話をします。

『スピリットサークル』における主観の描写について

既に1ヶ月ほど経ちますが、水上悟志さんの『スピリットサークル』2巻を読みました。



この作品の主役は、桶屋風太という14歳の少年です。
彼のクラスに、石神鉱子という少女が転校してきたことから、この物語は始まります。元々「霊が視える」体質だった風太は、鉱子の側に背後霊がいる(そして接触を図ろうとしている)ことに気付きます。
そして下校時にうっかり背後霊に反応してしまったことから、鉱子もまた、風太が「視えている」ことに気付きます。そして風太の顔に、特徴的な痣があることも知る。
それを知った鉱子は風太に対し、自分たちは過去生において殺し合いをしてきたのだ、その輪廻を断つために殺すと、物騒な宣言をされます。


そして風太は、幾つもの過去生を体験し、鉱子や、それ以外の多くの人たちの過去生の関わりを知る旅を始める...というのが大雑把な概略となります。
未だ謎に包まれた箇所も多く、どのような展開をするのかは予想もつかない状況ではありますが、前作『惑星のさみだれ』に登場したキャラクター、アニムスを通じて描かれた「輪廻」というものを、この作品では突き詰めて描き抜いていくのだろうと考えられます。続きに大きな期待を寄せている一作です。



さて、その『スピリットサークル』ですが、2巻でちょっと面白いな、と感じた演出・表現がありました。こちらになります。



水上悟志スピリットサークル』2巻149ページ。)


この場面は、第四章「フロウ」の一場面です。
第四章で描かれる風太の過去生は、古代ギリシア・エジプトを彷彿とさせる土地。過去生における風太に該当するフロウは、建築に携わる職人です。そして上の画像で描かれる女性は、フロウの妻・リハネラ。リハネラの最期の場面になります。
リハネラには、密かに想いを寄せていた人物がいます。リハネラの家の奴隷で、彼女が幼い頃からずっと一緒にいた人物でもあるクティノスです。彼は、フロウとリハネラの結婚が決まってすぐに自らを買い取り、自由の身分となって街を去ります。それ以来、リハネラはクティノスと逢うことはありません。
そして死の間際、クティノスの姿を「視て」、息を引き取るという場面な訳です。
その際、上に挙げたコマの右側では、リハネラは若く描かれている。いっぽうで左側が実年齢です。
つまり、最期の瞬間に「視えた」クティノスは、最後に見た若いクティノスの姿(それしか知らない)な訳で、リハネラの主観でも、それと同時期のリハネラに戻っている。その主観の姿がそのまま描かれている訳ですね。



まぁ、キャラクターの主観と実際の姿にズレが生じている例というのは、とりわけ珍しい訳でも、目新しい訳でもありません。有名どころを幾つか挙げてみますと、高野文子さんの『田辺のつる』や大島弓子さんの『綿の国星』などは典型的な例ですね。


絶対安全剃刀―高野文子作品集

絶対安全剃刀―高野文子作品集

(『田辺のつる』は、『絶対安全剃刀』に収録。)


手塚治虫の代表作『火の鳥』のひとつ「復活編」のロビタもそうですか。
あと、これはマンガではないですが、虚淵玄さんがシナリオを担当した『沙耶の唄』も該当しますね。*1


火の鳥 5・復活編

火の鳥 5・復活編

沙耶の唄 オリジナルサウンドトラック

沙耶の唄 オリジナルサウンドトラック


比較的最近だと、九井諒子さんの短編集『ひきだしにテラリウム』に収録された『えぐちみ代このスットコ訪問記 トーワ国編』も該当するでしょうか。


ひきだしにテラリウム

ひきだしにテラリウム



ただ、この『スピリットサークル』での使われ方は比較的珍しいかも、と思いました。
主観と実際のズレ(或いはそれに伴うコミュニケーションの齟齬とか)っていうのは、用いられる場合、それ自体が主題であったり、作品の根幹に関わるケースが多いように思う訳です。小説の一人称による叙述トリック的な、とでも言いますか。
そのいっぽうで、『スピリットサークル』の上のコマでは、演出のひとつとしてさりげなく使われている。これは意外と珍しいのではないかな、と。マンガの表現の幅がずいぶんと広がったのかなぁと考えたりもします。


まぁ、自分も読んでいないマンガは大量にありますので、単純に見逃しているだけか、或いは気付いていないだけというケースも充分過ぎるほど考えられます。知っているものがあれば教えて戴ければ幸いです。
といったところで、本日はこのあたりにて。

*1:実際、『沙耶の唄』は『火の鳥 復活編』のオマージュだとか。