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時折マンガの話をします。

『グレイッシュメロディ』:曖昧であるということ

最近は何かと忙しくて買ったマンガを書き連ねるだけだったので、久し振りに読んだマンガの感想とかを書いてみようかと思います。
今回取り上げてみるのはこちら。

グレイッシュメロディ (ジェッツコミックス)

グレイッシュメロディ (ジェッツコミックス)

水樹和佳子さんの現時点での最新刊、『グレイッシュメロディ』です。
最新刊とは言っても、刊行されたのは今から約2年前。奥付には2006年2月1日第1刷発行と記されています。
元々寡作と言っていい作家さんなのですが、最近は更に刊行ペースが落ちてきているのが惜しまれるところです。

それにはいろいろと理由があるようです。
水樹和佳子さんの作品は名作揃いですが、代表作を1つ挙げるとするならば間違いなく筆頭に出てくるのは超古代SFファンタジー『イティハーサ』です。

イティハーサ (1) (ハヤカワ文庫 JA (639))

イティハーサ (1) (ハヤカワ文庫 JA (639))

(これは必読です。いつか感想も書ければと。)

この作品、完結までに15年近い年月を費やした超大作ですが、非常に紆余曲折を経て完結しています。
文庫版7巻のあとがきによると掲載誌(「ぶ〜け」)の編集部側との間に相当な軋轢があったようでして、どうも雑誌のカラーを変えたいから打ち切りを迫られたらしい。
作者側としても何としても納得のいく終わらせ方をしたかったようで、単行本の最終巻は全て書き下ろしという、マンガとしてはかなり異例のかたちで出版されています。

その際の出来事が枷となって、しばらくの間完全にマンガから離れてしまっていたのですが、一昨年に5年ぶりに待望の新作を出しました。
それが『グレイッシュメロディ』という訳です。

で、感想を書いてみます。
ネタバレもある程度あるのでご注意ください。


まず、大雑把に作品の解説をしておきます。
物語の核となるのは3人います。
神山仁・真幸父子と、朋という名前の家出少年(?)。
仁は映画関係の仕事をしているようだが、息子を含めた誰にも詳細を語ろうとはしない。
真幸は「ぬるい幽霊」が観えるという能力がある。
朋は家出中に暴走族に絡まれたところを通りかかった仁に助けられ、そのまま神山家に転がり込むことに。
真幸が観る「幽霊」をきっかけに、3つの家族(女の子の幽霊の両親、朋の家族、そして神山家)が抱える問題と、その家族が再び繋がりを深めていく様子が描かれていきます。


やはり『イティハーサ』が大変な超大作だったため比較してしまいがちになりますが、僕はこちらも小品ながらよくまとまったお話だと思いました。
また、水樹和佳子さんの主張と言いますかテーマと言いますか、伝えようとしたことが前面に(且つ曖昧に。ここが重要)現れていると感じました。


単行本あとがきに、このような文章があります。

世間はいつのまにか、全てに「白黒」をつけたがるようになってしまいました。「曖昧」という行為の実は賢さを、「中庸」という思考の実は寛大さを、そして「グレイ」という色の限りない多様さをすっかり忘れてしまったかのように・・・・・・。

(171ページ)


曖昧であることを決して否定的に捉えていません。
そして作品上の演出等においてもその考え方に基づいた、読み手による解釈の多様性を許容するような描き方をしていると感じました。

個人的にそのように感じた箇所を2つばかり書いてみます。
まずは第2話に出てくる朋の義母の友人・正宗薫についてです。
彼女は職業がバレリーナであることが後に判るのですが、本人がそれについて何も語らない時点から仁はそのことが判っているような言動をしています。
例えば105ページで「惜しいねその身長」と言っていますね。
かなり背が高く描かれているので、あまり背が高過ぎるとバレリーナとしては不利ということを婉曲して伝えている訳です。

仁はそれ以前の発言・立ち居振る舞いにも不思議なところがあって、何か常人には持ち得ない能力を持ち合わせているのでは、と思わせるところがあります。
しかし純粋に観察力でそれを推理したとも解釈することも可能です。
96ページ、薫初登場の箇所ですが、その4コマ目で薫の足が描かれます。
その足の置き方が、まさしくバレリーナのそれなのですよ。
右足を前、左足を後ろにしつつ両足の踵を密着させ、それぞれの足を45°外側に向ける立ち方です。

ただなぜ仁が薫の職業が判ったか、自分の口からは語らない。
その理由をどう解釈するかは読者側の判断に委ねられています。


あともうひとつ、朋の義母が失踪してしまうくだりです。
どこに行ったか判らず、朋は仁に助けを求めます。
その際、このような会話が為されます。

「さあ・・・朋君は どこだと思う?」
「わ わからないよ」
「わかるよ 大丈夫・・・」「目をつぶってごらん」「きっと 何かが見えてくる・・・」

(135ページ)


そうすると、朋の脳裏に、ある場所のイメージが鮮明に浮かび上がってくる訳です。
その事実に朋自身驚きを隠せず、「でも あたしそういう力全然ない人だよ」(136ページ)と叫んでいます。
真幸が幽霊を観れるという話に「そんなものいるわけないじゃないですか!!」(20ページ)と叫んでいるのと鮮やかな対照を為しています。

しかしこれについても些か穿った見方をすれば、引用箇所の前で仁は事細かに朋に質問を重ねて答えの方向へと誘導をしている訳でして、様々な可能性を削っていった帰結としてその場所が浮かび上がったと考えることも可能です。
これもまた、読者がどのようにこの物語を捉えるかで見方は異なってくるかと思います。


また、明らかに超自然的現象としか捉え得ないもの(幽霊とか、突然草むら一面に咲き誇るタンポポとか)も描いている訳でして。
元々水樹和佳子さんは現代を舞台にした作品においてもこのような奇跡的なことを描きます。初期の『エリオットひとりあそび』でもそうでした。
ご本人も座敷童を見た経験があるとか地震予知が当たるとか仰ったことがあるようですし、そのような存在を信じておられるのだと思われます。

しかしそれを声高に、断定的に語ったりはしないのが特徴です。
やはりこれは、水樹和佳子さんはSFを得意ジャンルとしていることが関係しているように思います。科学的思考を持ち合わせているのだと思うのです。
故に決して盲目的な断定をしたりはしない。「曖昧」さを残しておく。

そしてその思考こそが素晴らしいのだと、少なくとも僕にはそのようなメッセージを送っているように思いました。
当然考え方には「限りない多様さ」がありますから、違う解釈をなさった方もおられると思いますが。


随分長くなりましたが、「感動する場所とかがあらかじめ決められているような作品」、身も蓋もない言い方をすると「ここで泣いてくださいね!」みたいなあざとい作りの作品に辟易している方とかにはお薦めできる一作だと思います。


【参考文献】

大塚英志「少女まんが家と都市伝説」(『定本 物語消費論』所収、角川文庫)