マンガLOG収蔵庫

時折マンガの話をします。

オタクと宗教改革

ひとつ前の記事で『オタクはすでに死んでいる』の感想じみた文章を長々と書き連ねましたが、今回もそれと関連して。

いきなり話はそれますが、今年の1〜3月にアニメ『狼と香辛料』を観ていました。
この作品は、中世から近代へと移行していく時期のヨーロッパをモティーフとした世界観になっています。
で、社会背景の参考になるかなと思い、長らく本棚に眠っていた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を引っ張り出して読んでみたりもしました。(家には積ん読本が多数あります)。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

とは言えあまりの文章の難解さに辟易して、200ページくらい読んで中断していますが。(´ω`;)
これでも相当読みやすくなっているらしいんですけどね。言い回しが回りくどいやら註釈が時には10ページ以上延々と続いているやらで大変です。

そして時期を同じくして、このような記事を見つけました。

プロテスタンティズムの資本主義の精神』で論証される「近代資本主義の精神」と少年マンガで描かれる精神の共通性について触れた記事です。
で、実のところこの記事は直接的な関係はないのですが、この記事と『資本主義の精神』を(途中までながら)読んでいた状態で、且つ『オタクはすでに死んでいる』を読み終えたとき、ふと思いついたことがあります。

ここ20年くらいの「オタク」にまつわる諸状況は、宗教改革期に似ているかもと思った訳です。

『資本主義の精神』で(個人的に)最も印象深かった箇所はルターが聖書のドイツ語訳を行った際のくだりです。長くなりますが引用してみます(傍点部は太字に変えています)。
引用部分は飛ばしても大丈夫ですよ。

さて、〔「職業」を意味する〕ドイツ語の「ベルーフ」》Beruf《というのうちに、また同じ意味合いをもつ英語の「コーリング」》Calling《という語のうちにも一層明瞭に、ある宗教的な―神からあたえられた使命(Aufgabe)という―観念がともにこめられており、個々の場合にこの語に力点をおけばおくほど、それが顕著になってくることは見落としえぬ事実だ。

(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』95ページ。)

しかも、この語を歴史的にかつさまざまな文化国民の言語にわたって追究してみると、まず知りうるのは、カトリック教徒が優勢な諸民族にも、また古典古代の場合にも、われわれが〔世俗的な職業、すなわち〕生活上の地位、一定の労働領域という意味合いをもこめて使っている》Beruf《「天職」という語と類似の語調をもつような表現を見出すことができないのに、プロテスタントの優勢な諸民族の場合にはかならずそれが存在する、ということだ。

(同掲書、95ページ。)

一続きの文章を2つに分けて引用しましたが、判り辛い文章ですよね。
つまり、プロテスタント優勢の国でのみ「(生活するための)職業」を意味する語(ドイツ語だと Beruf)に宗教的な意味合いが併せて付与されるということです。
で、引き続き引用。

さらに知りうるのは、その場合何らか国語の民族的特性、たとえば「ゲルマン民族精神」の現われといったものが関与しているのではなくて、むしろこの語とそれがもつ現在の意味合いは聖書の翻訳に由来しており、それも原文の精神ではなく、翻訳者の精神に由来しているということだ。

(同掲書、95ページ。)

ルッターの聖書翻訳以前には、ドイツ語の》Beruf《、オランダ語の》beroep《、英語の》calling《、デンマーク語の》kald《、スウェーデン語の》kallelse《などの語は、どの国でも、現在のような世俗的な意味には決して使用されていない。(中略)近代的な》Beruf《「天職〔神より与えられた召命としての職業〕」概念の創造は、言葉の上でも聖書の翻訳、しかもプロテスタントのそれから来たものだった。

(同掲書、101〜102ページ。)


これもかいつまんで書くと、ルターが聖書をドイツ語に翻訳した際に初めて Beruf という「(世俗的な)職業」を意味する語に宗教的な意味合い(「天職」)という概念が加わったということです。
どうやら、意味がまったく違う語句(宗教的なものと職業的なもの)をどちらも Beruf と訳したようなのですね。

長々と引用してしまいましたが、つまり何が言いたいかというと、岡田斗司夫さんが「おたく」を「オタク」と言い始めたようなものかなということです。
それまでネガティヴな意味合いでのみ使われる蔑称であった「おたく」を、かなりポジティヴな、優れた眼を持つ人種としての「オタク」に変えてしまった訳ですよ。

まぁこれ以降は読んでいないですし、元々宗教史とかはさほど詳しくないので簡単に。
実際の宗教改革ではそれ以降様々な宗派が分離していきます。
ルターの福音主義(聖書のみを信仰の拠りどころとする)を支持するルター派ですら、後に聖書すら不要で個人の信仰のみを重視する派閥が出てきてルター自らその動きを批判したりする訳です。更にはカルヴァンが予定説を主張しはじめたり英国国教会だメソジストだバプテストだと次々と宗派ができて果てはクエーカーやモルモン教エホバの証人といった教団まで出てきてもはや「プロテスタント」で括っていいものかどうか判らなくなってくる。

現在のオタク状況に似ているような気がする訳で。
と、まぁそんなことをふと思いついただけですよ。