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時折マンガの話をします。

大英帝国のもうひとつの側面が描かれる。アラン・ムーア『フロム・ヘル』

ヴィクトリア朝時代を舞台にした作品と言えば、マンガだと森薫さんの『エマ』船戸明里さんの『Under the Rose』を挙げることができます。


エマ 10巻 (BEAM COMIX)

エマ 10巻 (BEAM COMIX)

Under the Rose 6―春の賛歌 (バーズコミックスデラックス)

Under the Rose 6―春の賛歌 (バーズコミックスデラックス)


しかし上に挙げた作品で描かれるのは、ジェントリーや伯爵家といった、いわゆる上流階級社会の姿です。
イギリスは、階級格差が非常に激しい社会であったという話です。自分は実際に行ったことはないので実感としては掴めないのですが、確か『MASTERキートン』で、人口の5%(だったかな?)が国の資本の90%を支配しているとか何とかいう台詞が出てきていたと記憶しています。


ヴィクトリア朝時代のもうひとつの側面、暗黒面を描いた作品が、今回ご紹介する『フロム・ヘル』になります。
作者はアラン・ムーア(原作者。作画はエディ・キャンベル)。アメコミになります。
原著刊行は1999年。映画が2001年に公開されており、そして昨年10月に日本語版が刊行されました。些か値が張るので躊躇していたものの、つい先日意を決して購入したという次第です。


フロム・ヘル 上

フロム・ヘル 上

フロム・ヘル 下

フロム・ヘル 下


この作品の軸となるのは、1888年8月〜11月に掛け、ロンドンのイーストエンド、ホワイトチャペル地区において発生した連続殺人事件です。いわゆる切り裂きジャックです。
アラン・ムーアは、スティーブン・ナイト切り裂きジャック終結論』において提示された仮説を核にしつつ、そこに独自の創作を盛り込みながら事件の始まりから結末までを描き出していきます。


切り裂きジャック最終結論

切り裂きジャック最終結論


しかし描かれるのは、事件のみではありません。
連続殺人事件を通じて描き出されるのは、19世紀末英国の姿そのものです。ヴィクトリア女王から街娼に至るまで、あらゆる階級の人物が登場し、当時流行した心霊主義・降霊術といったオカルト的事象やフリーメーソン、更には王室を揺るがしかねないスキャンダル・ゴシップ趣味といったものが複雑に絡み合い、それが切り裂きジャックへと収束していく構成は圧巻です。


物語の主要な舞台となるホワイトチャペル地区は、いわゆる貧民街です。
かなり年齢を重ねた女性が一夜の宿或いは一杯のビールのために街角で春を売り事にまで至る姿が、彼女等がみかじめ料を払えずに怯える姿が、暗く陰鬱な情景が克明に描写されています。
それは上流階級の人々との描写と、鮮やかな対比となっています。最もそれが明確に描かれているのは第五章冒頭(4〜9ページ)。



アラン・ムーア作/エディ・キャンベル画/柳下毅一郎訳『フロム・ヘル』上巻第五章4〜5ページ。)


上に掲げたページでは、上流階級と下層の生活の一部が交互に描かれています。
柔らかなベッドで眠る姿が映し出される一方で、ロープにもたれるようなかたちで眠る女性の姿が描かれる。
片や健やかな起床。片やロープを外され、無理矢理に眠りを遮られる。


描き方そのものも違っています。
よく観ると、上流と下層では色遣いが異なるのが判るかと思います。原本を持っていないので確証はできませんが、恐らく上流階級の描写はカラーで、色鮮やかに描かれています。それに対して下層は白黒で統一されています。


そして最も鮮烈なのが第十章。
切り裂きジャックの最後の殺人、メアリー・ケリーを手に掛ける様子が、30ページ以上にわたり展開されます。
淡々とメアリーを解体していく姿には、戦慄を憶えずにはいられません。
更にはジャックは、幻視者としても描かれます。ある出来事をきっかけに、不可解なヴィジョンが垣間見えるようになった人物としてジャックは描かれ、それはメアリー殺害の際に明確なかたちを取ります。


その幻視は、最終章では時空を超えて様々な影響を及ぼすことになる。
物語の前半において散りばめられていた伏線が一挙に収斂する瞬間です。
読み終えたとき、しばらく言葉が出てこないのではないかと思います。


日本のマンガとはかなり異なるコマ割り、値段、いろいろと障壁はあるかもしれません。
しかしこの作品は是非読むべきだ。圧倒的な力を持つ作品だと思います。