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時折マンガの話をします。

日本マンガ学会シンポジウム「マンガと同人誌」レポ(第1部)

6月24日に、明治大学で開催された日本マンガ学会のシンポジウム「マンガと同人誌」に行ってきました。


非常に充実した内容でしたので、遅ればせながらレポを書いてみようかと思います。
殴り書きに近いノートと記憶に基づく、箇条書きに近いレポになります。細部は異なるかもしれません。その点はご容赦のほどを。


まずは「マンガ同人誌の歴史と役割」と題された第1部から。
司会はマンガ評論家としても知られる神戸松陰女子学院大学教授・村上知彦氏。パネリストはマンガ家・アニメーターの真崎守さん、コミックマーケット初代代表の霜月たかなかさん、マンガ家の波津彬子さん、コミティア代表の中村公彦さんの4名です。




【第1部:「マンガ同人誌の歴史と役割」】


まずは村上氏による、同人誌の歴史研究について。

  • 最初の同人誌の歴史研究は、「COM」1968年4月号の特集。
  • それに次ぐものは、「ぱふ」1979年11・12月合併号の特集。
  • 前者の編集と、後者の雑誌の表紙と、共に真崎守さんが関わっている。
  • そして故・米澤嘉博氏が阿島俊名義で執筆した『漫画同人誌エトセトラ』が、まとまった歴史研究として挙げられる。



そこから村上氏が真崎守さんへ話を振る。「COM」に至るまでの歴史的経緯についてとか。

  • 「COM」の源流としてあるのは「漫画少年」。元講談社の編集だった人物*1が戦後間もない昭和22年に創刊した雑誌。
  • 手塚治虫が無償で表紙を描いたりもした。
  • 漫画少年」の特色として、「読む人のための遊び場をつくる」というものがあった。
  • 描く側にとっても、手塚治虫が無償で描いた点からも窺えるが、金銭的な意味合いよりも「繋がりを求めて描く」という流れが存在した。
  • 漫画少年」では、新人募集(で応募されてきた作品)の選評を寺田ヒロオが担当していた。寺田ヒロオにファンレターを送ったら、サインを贈ってくれたことも。
  • 漫画少年」や貸本では新人募集が多く行われていたが、それらが消えてしまった。*2それを再びやろうとして始めたのが「COM」。
  • 編集部をファンに開放する、といった試みも行った。


このあたりの経緯については、パネリストの一人、霜月たかなかさんが編集した『COM 40年目の終刊号』でも詳しく語られています。ご興味のある方は是非。
以前自分が書いた感想記事も併せて。まぁこちらは蛇足ですな。

COM 40年目の終刊号

COM 40年目の終刊号

次いで霜月たかなかさんの発言。
実体験を交えつつの、コミックマーケット誕生に至るまでの経緯。

  • 「COM」の特徴として、マンガが「読者のため」だけではなく「自己表現の手段」としての面を持っていた、ということがある(例として、岡田史子さんの作品とか)。
  • ただしその底流には、若者文化の影響が存在する。
  • 1960年代、「ミニコミ」の出版が若者の間で広がった。次第にミニコミの専門店もできはじめる。
  • 「自分で出版する」という背景が、「COM」の底にある。
  • 学生運動におけるアジテーションのビラ等も、「自分で出版する」という点では繋がりがある。
  • 人(マンガファン)を繋いでいた「COM」が休刊した後、読み手主催のイベント「日本漫画大会」が開催された。その時点で自分たちで創作・発表を行うサークルが出てきている。
  • 同時期にマンガ評論を書き始めた。当時、評論を書く人は少なかった。
  • 大阪で活動していたサークル*3と合体するかたちで同人サークル「迷宮」が創設された。
  • しかし「COM」がないので、それ「評論」を流通させることができない。ならば自分達でその場を、と作ったのがコミックマーケット
  • コミックマーケットでは創作よりもファンクラブ会誌的なものが多かった。それに違和感を感じたため、初代代表を辞することに。
  • 創作中心の流れはMGM、更にその派生としてコミティアへと繋がっている。
  • 同人誌が広まりを見せた要因の一つとして、1970年代に任天堂が発売した青焼きコピー機「コピラス」の普及も挙げられる。これによって、安価で多くの部数を刷ることが可能になった。


このあたりは、霜月たかなかさんの著書『コミックマーケット創世記』に詳しいのかも。
何故か、まだ読んでいないのですな・・・。('A`)

コミックマーケット創世記 (朝日新書)

コミックマーケット創世記 (朝日新書)



続いては、波津彬子さんの発言。
波津彬子さんの代表作は、『雨柳堂夢咄』になりますかな。

雨柳堂夢咄 其ノ1 (ソノラマコミック文庫 は 28-1)

雨柳堂夢咄 其ノ1 (ソノラマコミック文庫 は 28-1)

1970年代の、波津彬子さんの地元・金沢における同人誌体験と、「やおい」の誕生秘話とも言えるお話を披露。

  • マンガを描きたい人たちが集まる、1960年代末の状況:肉筆同人誌から入る。現在のようにネットも存在しない時代。まずは近所で友人を捜すことから始める。
  • 高校時代には漫研に所属。雑誌の文通コーナーで知り合いを増やしたり。
  • 当時の肉筆同人誌・回覧誌には、批評ノートが必ず付いていた。
  • (流通手段がなかった)当時は、コピー誌を作っては近場の雑貨屋さんに置かせてもらったりしていた。
  • 坂田靖子さん*4が主宰の同人誌「ラヴリ」に、手伝いのかたちで参加。
  • 『ラヴリ』は会員も募集して、広がりを見せてくる。
  • 肉筆の合間に、増刊のかたちで「ラヴリ」のセレクションも刊行。セレクションは印刷同人誌。
  • 増刊は通販で販売。文通での交流も行っていた。
  • 会員向けとして、「ラヴリ」購読員(セレクションのほう?)も募集。500人くらいが集まった。隔月で発行。
  • 自分が責任編集の企画もの同人誌「らっぽり」*5の「やおい特集号」が「やおい」の初出。1979年のこと。
  • 当時はマイナー誌がない時代。*6男性同士の恋愛は、商業誌・少女マンガで描くことは難しかった。
  • 商業誌では一般向を描き、同人で男性キャラクター同士を描く。
  • その頃、「ラヴリ」で『夜追』という作品が描かれた。男性同士の恋愛を描いた作品だが、読んでも何やらよく判らない。しかし色気はある。フランス映画的なムードを持つ作品。
  • 作者自ら、『夜追』は「ヤマもオチも意味もない」と、タイトルとかけて評した。
  • それが面白かったので、(ネタ的に?)「らっぽり」で「やおい特集号」を作り、「やおい対談」内において定義付けをした。
  • その定義が80年代に急激に浸透していった。


非常に面白く、且つ歴史的にみても貴重な証言だったと思います。
知っている方にとっては当り前の知識なのかもしれませんが、そういう知識は案外知られていないものなのかも、と。


そしてコミティア代表・中村公彦さんのお話に。

  • 自分は世代的には「ぱふ」になる。
  • 当時の「ぱふ」には「お手伝い制度」があり、読者が編集部に来て雑用・手伝いをしていた。
  • 通い詰めているうちにそこで働くことになり、同人誌紹介コーナーの担当をすることに。
  • 3〜4年その仕事を続け、(編集部内で?)「自分たちでMGMのような、創作同人誌の即売会をやりたい」という話が出てきて、それがコミティアへと繋がる。
  • コミティアを会社にした理由としては、この規模になると専業スタッフが必ず出てくるという点と、法人じゃないと会場を貸してくれないという点がある。
  • 現在のコミティアの特徴として挙げられるのは、「出張編集部」「見本誌コーナー」「書店出張販売」。
  • 商業誌との立ち位置については、運営で苦しんだ時期もある。同人と商業の関係、意識のズレ。
  • その際に支えになった言葉がある。「創作にプロもアマもない」というものだ。*7


中村公彦さんの発言については、「世界に1冊しか存在しない見本誌」に魅入ってしまったりしたことも影響して、ノートを取り忘れた箇所が多いのでこのくらいになります。



質疑応答は、主に真崎守さんに対しての質問が中心。

  • 中村公彦さんの質問:何故貸本業界は急速に衰退していったのか?
  • 真崎守さんの返答:貸本屋自体の数が決して多くはない。*8また、1960年代は景気が上向いてきた時期で、子供がマンガを買えるようになった(「貸本」の役割の終わり?)。貸本でデビューしたマンガ家もプロ(この場合は週刊誌の連載とか)に移っていった(人材の枯渇?)。
  • すがやみつるさん*9の質問:(ご自身の肉筆同人誌「墨汁三滴」*10の現物を持参、引き合いに出しつつ)「アサヒグラフ」1969年1月17日号?の同人誌特集(真崎守さんが執筆したものだった筈)の見出し・アオリ文句に「第三期黄金時代」とある。自分も写真に写っている。第一期が石ノ森先生の『墨汁一滴』の頃、第三期が自分の頃として、第二期はどの時期を指しているのか?
  • 真崎守さんの返答:自分を含む、第一期に乗り遅れた、貸本とかで描いていた人が出していた時期。

と、このあたりで第1部終了。
赤松健先生も参加した第2部のレポはこちら。

*1:加藤謙一氏のこと。

*2:漫画少年」は1955年に休刊、貸本も1960年代に急速に衰退していきます。

*3:サークル名「構雄会」、同人誌名は『漫画ジャーナル』。

*4:代表作は『バジル氏の優雅な生活』『マーガレットとご主人の底抜け珍道中』あたりでしょうか。

*5:「ラヴリ」の姉妹誌的な位置付けのよう。「らっぽり」というタイトルが「ラヴリ」のパロディかも。

*6:「JUNE」が1978年に創刊するも、翌年休刊。復刊は1981年。

*7:誰の言葉だったか・・・。('A`)

*8:確か最盛期で、全国で2000くらい。

*9:言わずと知れた『ゲームセンターあらし』の作者。当時のマンガ業界を詳細に記録した自伝『仮面ライダー青春譜』も名著とのことだが、まだ読んでいない・・・。('A`)

*10:石ノ森章太郎さんの肉筆同人誌「墨汁一滴」のパロディ。後にすがやみつるさんは石森プロに入り、『仮面ライダー』の作画も担当されています。