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時折マンガの話をします。

珠玉の名篇。志村志保子『林檎の木を植える』

幼馴染みが、バスの事故で死んだ。
乗る理由がない筈のバスに乗って。
「話したいことがある」という言葉を遺したまま。
彼女はそのバスで、どこに向かっていたのか。
彼女はいったい、何を伝えようとしていたのか。





先日、志村志保子さんの新作『林檎の木を植える』が発売されました。



これまで短編を中心に執筆されていた志村志保子さんの、初の長編となります。
(『女の子の食卓』は全8巻ですが、短編連作・オムニバス的な内容です。)
そしてこの作品が、非常に素晴らしい内容でしたので、ご紹介しておきたいと思います。内容に少なからず触れるので、ネタバレが苦手な方はご注意を。




物語は、主人公・みいの幼馴染み、真由香の死から始まる。
高3の夏休みも終わる頃、バスの事故に巻き込まれ、真由香は命を落とす。
みい・リカ・聖奈と、小4の時に転校してきた真由香は、長く親友として過ごしてきたものの、全員別の高校に入ってからは、少しずつ疎遠になってきていた。


それでも毎年、近くの観光施設で行われる花火大会には皆一緒に行き、今年も行く約束をしていた。そしてその際、真由香はみいに「皆に話したいことがある」と伝えていた。
しかしその日に真由香を除く3人はそれぞれ用事ができてしまい、合う約束は流れてしまう。そしてそのまま会うこともなく、真由香は帰らぬ人となってしまった。


真由香の葬儀が終わり、みい・リカ・聖奈の3人で家路へと向かっていた際、「真由香は何故あのバスに乗っていたのか」という話になる。そのバスに乗る理由が、家族にも思い当たらないという。
結局彼女たちもその理由は判らぬままに別れる。
そして夏休みが終わり、受験が近付くにつれ、お互い会うこともなくなり、そのままみいは大学へ通うため地元を離れることになる。


大学に入ってしばらく経ち、みいは久し振りに、同じく近くに越してきていたリカ・聖奈と会う約束をする。そして再会した3人はみいの家へ。その時、みいの部屋の隣に住む女性・槙と出逢う。すると彼女は、みいの携帯電話に付いていたストラップを指差し、



志村志保子『林檎の木を植える』28〜29ページ。)


と指摘する。
みいが付けていたストラップは、真由香も含めた4人で、小学生の頃*1に一緒に買ったもの。
そしてそのことは、ごく限られた人しか知らない筈のこと。
隣に住む槙という女性は、真由香について何かを知っている。


みいは槙に、真由香のことを訊きだそうとする。
しかし槙は、真由香とは会ったことも、話したこともないと言う。
そして槙は語り始める。ある日を境に、夢を見るようになったと。
その夢は知らない場所で、知らない人物が出て来る、音が存在しない夢。
しかし、夢に出てきた人物が、自分の隣に引っ越してきた。そしてリカと聖奈も、槙の前に現れた。そして彼女は確信する。



(同書62〜63ページ。)


真由香は、ドナーカードに登録をしていた。
そして槙は昨年、つまり真由香が死んだ年、角膜の移植手術を受けていた。
真由香の眼の持っている記憶が、槙の夢として、現れてくるのだろう。そう彼女は確信していた。*2



そしてここから、物語は本格的に動き始めます。
リカの視点から綴られる真由香との記憶。
聖奈の視点から綴られる真由香との記憶。
みいの視点から綴られる真由香との記憶。
それが、槙の記憶と交錯するようなかたちで描かれます。



(同書76ページ。)


リカは、槙が真由香の記憶を共有していることじたいを、オカルトだと一蹴しようとします。
それには理由がある。



(同書98ページ。)


聖奈は、「真由香の記憶を共有する」槙に「見られたくないことでもあるの?」と問われ、逆に槙を突き放します。
それには理由がある。


リカと聖奈は共に、真由香に対して単純に親友と考えていた訳ではないことが、真由香を下に見ることで優位性を感じていたことが、負い目や嫉妬を抱いていたことが、昏い感情がくすぶり続けていたことが、あたかも薄皮を1枚1枚はがしていくかのように描かれていきます。
女の子の食卓』でも冴えを見せていた、揺れ動く感情・機微の描写は、この作品でもいかんなく発揮されています。


みいもリカや聖奈と同様、真由香に対しある疑惑を抱き続けていたことが明らかになる。
そして槙は、とりわけ手術以降に苦しい体験が続き、精神的にも非常に不安定な状態にある。それに加え、真由香の「音のない」記憶、つまり映像のみの記憶は、リカや聖奈、みいにとっては必ずしも歓迎できない内容が含まれています。2つの記憶が交錯する槙の精神状態は、明らかに危うい方向へと向かい始める。
悲劇がすぐ側まで迫っている。読む人誰もがそう思わざるを得ないような展開が続きます。


しかしそこから、物語は鮮やかに反転するのですね。
冒頭に記した謎が結末へと向かい収斂していき、明らかになる。それと共に訪れる救済。
それは是非、実際に読んで確かめて欲しいところです。


この作品のタイトル『林檎の木を植える』は、マルティン・ルターの言葉が元になっています。
「たとえ 明日世界が終わるとも 今日 私は林檎の木を植える」。
作中においても、この言葉にはいろいろな解釈があるらしいということが言及されていますが、それに対する真由香の解釈が、166ページに描かれています。
その解釈を実践したかのような、大団円と呼ぶに相応しい終わり方となっています。



この作品は、どちらかというと地味な作品と言えます。
しかしながら、いぶし銀のような輝きを放つ珠玉の逸品です。お薦めの1作です。
といったところで、本日はこのあたりにて。

*1:服装からその時期と判断。

*2:この様な、臓器移植の後に提供者の記憶が共有されるという事例が実際にあるという話もありますね。高橋ツトムさんの『地雷震』のラストエピソードでも用いられていました。実際のところはどうなのかは判りませんが。