『神々の山嶺』回想シーンの演出について
ネット上は hagex氏の痛ましい事件に関する記事に覆い尽くされている感がありますし、名状しがたい感情が燻っているのも確かではありますが、自分はいつものようにマンガのことを何か書こうかな、と思います(とは言っても最近は更新頻度も非常に低い訳ですが)。
ということで、今回は唐突に『神々の山嶺』のことを書き連ねてみます。
もう1ヶ月以上経ちますが、登山家の栗城史多氏がエヴェレスト登山中に亡くなるという山岳事故がありました。その関連記事をいろいろと読んで、かなり毀誉褒貶の激しい方だったらしいことは朧げながら判ってきた訳ですが、何でも栗城氏はエベレスト南西壁無酸素単独登頂を掲げていたらしいとのこと。
『神々の山嶺』を読んだ方ならお判りかと思いますが、南西壁無酸素単独登頂という行為は、この作品の主人公である羽生丈二が自らの全生涯を賭けて挑んだものと重なります(羽生の場合はそれに「冬期」が加わります)。
関連記事をいろいろ読んだあとに、改めて『神々の山嶺』を読み返してみたのですが、エベレスト南西壁の困難さに関しては、物語中盤に再三にわたって語られていました。そのなかのひとつを抜き出してみますと、
あらゆる可能性
あらゆる準備
自分の人生の目標を
それのみに定め
他の全てを犠牲にして
そのことだけに生きる数年間
なしには それを成し遂げることは
できないだろう
技術・体力・山での経験は
言うまでもない
高度順応・体調も万全
であること
さらに
エヴェレスト付近の
地理・天候に熟知ー
そして最後には人間の手から
離れた力が その人間に味方
してくれるかどうかである
それらの要素が全て欠けることなしに
あって 初めて登頂の可能性が
見えてくる
それが冬期エヴェレスト南西壁
無酸素単独登頂である
(原作:夢枕獏 漫画:谷口ジロー『神々の山嶺』愛蔵版中巻501〜502ページ。)
といった感じですね。
翻って栗城氏は...と考えてしまったりもする訳ですが、今回書こうとしていることからはズレてしまうのでこの話はこれで留めておきます。
『神々の山嶺』は、心に鬼のような何かを抱えた、それに突き動かされるように山に全生涯を賭けた、羽生丈二という人間の鮮烈な姿を描き抜いた作品だと言えるかと思います。そして(作中において)羽生丈二の名を広く知らしめたのが、冬の鬼スラ(一ノ倉沢滝沢第三スラブ冬期初登攀)ですね。
登攀不可能と思われ続けていた鬼スラを攻略し、そこから羽生という登山家が伝説的な存在へとなっていく訳なのですが、初攻略の際にパートナーとなる井上真紀夫を説得する場面があります。難色を示す井上に羽生は攻略手順を伝えると共に、自らの山屋としての生き方についても熱を込めて語り続ける。
その場面は2回描かれていまして、1度目は鬼スラ攻略の直前、*12度目は羽生がエヴェレスト南西壁に挑む直前、羽生の足跡を追うジャーナリスト(にしてもう一人の主役)深町誠の回想というかたちで描かれます。*2
そして今回触れたいのは後者の回想シーンです。まずは一場面だけ抜き出してみましょう。
(原作:夢枕獏 漫画:谷口ジロー『神々の山嶺』愛蔵版中巻517ページ。)
この一連の回想シーンに関しては、コラ画像で使われることも度々見掛けるので、オリジナルを未読でも知っている、という方がいるかもしれませんね。
そしてこの場面、他の場面と比べても一際強い印象を与える。説明するまでもなく谷口ジローさんの緻密且つ力強い筆致は全編を貫いている訳ですが、その中でもこの回想シーンは異質な迫力と言いますか、強烈なインパクトを読み手に与えます(それ故に、コラ画像の題材にもなっているとも言えます)。
個人的な印象ですが、この回想シーンの特徴は「キャラクターが動いていない」ことです。見事なまでに止まっているように見える。
何を訳の判らないことを、紙に描かれたマンガなのだから当然ではないか、と思うかもしれませんが、そうではないのですよ。
上手く説明するのが難しいのですが、映像媒体(映画とかドラマとか再現VTRとか、ミュージッククリップとか)で「静止画像に台詞やナレーション、歌を被せている映像」みたいなものを観たことはないでしょうか?そういう映像に近い感覚が、この回想シーンにはある。
マンガという媒体は(近年は電子書籍というものがありますが)紙に描かれたもので、つまり必然的に静止画像となります。その制約のなかで如何に動きを感じさせるか、その技巧を洗練させてきたジャンルという見方もできるかと思います。
藤子不二雄A先生の『まんが道』で、手塚治虫『新寳島』を読んで動いているように見えると驚愕する場面がありますよね。他にも、『SLAM DUNK』の山王工業戦のクライマックスとか、実際に動いているように感じる。脳内で、動いているイメージが湧いてくるような表現になっている。
『神々の山嶺』の回想シーンはその逆と言えるのではないか。動きを感じさせない表現技巧を凝らしているように感じる訳です。
因みに、構図・内容共にかなり近しいものでありながら、前者(井上を説得する1度目の場面)では「動いていない」という感覚は薄いように感じます。という訳で、両者を比較しつつ、それらの違いから「動いていない」ように感じる要素は何なのか、ということを検討してみたいと思います。
(画像左:前掲書中巻517ページ。)
(画像右:前掲書上巻185ページ。)
画像左の上のコマと、画像右の左下のコマはほぼ同じ構図となっていますが、印象は明らかに異なるのが判るかと思います。何が違いを生み出しているかというと、早い話がスクリーントーンの有無ですね。(先月自分が書いた『よつばと!』の調査記事の繰り返しみたいになっていますが、ご容赦願いたく。)
右の画像では、羽生のズボンや周囲のサラリーマンが着ているスーツ、窓、テーブルや椅子の影の部分等にスクリーントーンが用いられています。いっぽう左の画像では、線とベタだけで描写されているのですね。
このコマに限らず、回想シーン(中巻516〜519ページ)はトーン未使用で描かれます。これがもたらす効果として、中間色が用いられないことで画面全体の陰影が強くなる、更に言えば画面が「重くなる」ように思います。カラー映像とモノクロ映像の違い、みたいにも感じられる。
(画像左:前掲書中巻518ページ。)
(画像右:前掲書中巻519ページ。)
回想シーンの続きですが、似た構図を繰り返し用いているのが判るかと思います。恐らくですが、意図的に単調にしている。それによって動きを抑えた演出になっているように感じます。
また、この回想シーンですが、1度目の説得シーンを(スクリーントーンを使わない描き方で)リライトしつつ再構成されています。1度目のシーンは約10ページあるのですが、この回想シーンは4、実質で言えば3ページほどです。1/3くらいに圧縮しつつ、計算して似通った構図を選択し、配置している。視線誘導的なものもあるかもしれませんね。
そしてもうひとつ重要な点がありまして、この回想で用いられるフキダシです。
フキダシには、基本的には誰が喋っているかを示す突起部分がある訳ですが、*3この回想シーンで用いられるフキダシにはいっさい突起がありません。
この回想における台詞は羽生の説得が大半ではありますが、33のフキダシのうち、6つは井上の台詞です。誰の台詞なのかは、内容・文脈から判断するしかない。
見方を変えると、絵と台詞が紐付けられていない・切り離されて別々に存在していると言えるかと思います。
フキダシに突起があり、話者が示されている。つまりそれは、「キャラクターが何らかの台詞を喋っている」というイメージが描かれているということで、それは時間の流れも描いているということになります。
この回想シーンのフキダシによって、羽生・井上のやりとりを描いた場面から時間の流れ(のイメージ)を排しているように感じる訳です。
これらの要素が複雑に絡み合うことにより、この回想は動きを感じさせない、静止画像のような印象を出しているのではないかと考える次第です。
と、まぁこの見方が合っているか的外れかは別に、谷口ジローさんの作品は名作揃いなので、『神々の山嶺』に限らず是非ご一読戴ければなと思います。
今月末には『犬を飼う そして...猫を飼う』が発売されますし、それも楽しみですね。
といったところで、本日はこのあたりにて。