周防久志の物語:『ちはやふる』24巻における真の主役は周防名人である
先日、『ちはやふる』最新24巻が発売された。
- 作者: 末次由紀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2014/04/11
- メディア: コミック
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この巻で描かれるのは競技かるたの最高峰、名人位・クイーン位決定戦。
現在4連覇中、5連覇と共に引退を宣言している名人・周防久志に挑戦するのは、この作品のヒロインである綾瀬千早の(かるたでの)恩師・原田先生。
千早と同級生で、史上最年少のクイーン・若宮詩暢に挑戦するのは、嘗て4連覇した元クイーンであり、現在は2児の母(そして既に3人目を授かっている)・猪熊遥。
24巻においては、この2組の試合が緊迫感とスピード感を湛えて描き出されると共に、それぞれの人物(そして周囲の人たち)の心理的背景や、かるたに懸ける思いが丹念に描写されていく。
最も紙幅が割かれているのは若宮詩暢である。祖母との関わりや競技かるたとの関わり、そして「かるた」そのものとの繋がり。一度精神的に沈み、そこから再び這い上がってくる一連の流れは、この単行本の帯に書かれた「クイーン、覚醒。」という惹句に相応しいものだと言える。
だがしかし、それでも言わねばならない。
この巻の主役は若宮詩暢ではなく、周防久志なのだ、と。
以下、かなり詳細に24巻の内容に触れていく為、未読の方は注意を。
文章も収納しておく。
まず、周防名人がどのような人物として描写されてきたか。
一言で言えば、「感じの悪い人物」である。傲岸不遜でありながら、何を考えているかよく判らない。かるたが強くない相手に対しては徹底的に冷淡。名人位にありながら、かるたの普及振興といった(協会が期待するような)活動は皆無。試合による交流のようなことも行わず、名人戦にしか参加しない。それでいながら、天性の「感じの良さ(聞き分ける耳の良さ)」を持ち、挑戦者の心をへし折ってしまう程の、圧倒的な強さ・才能。腹立たしいまでの天才として描かれてきている。
そんな名人・周防久志であるが、名人戦の合間合間に、どこかへ電話を掛けている描写が繰り返し描かれている。
1試合目の直前、暗記時間にどこかへ電話をしている周防名人。
それを姿を見た千早は、名人戦へ全てを懸けてきた師匠・原田先生の姿を想起しつつ、札の配置を憶える重要な時間に電話をしている名人に対し嫌悪感を抱く。
1試合目終了後、控え室で休憩しているときにもどこかへ電話をしている。
2試合目終了後、もう後が無くなった時にも関わらず、やはりどこかへ連絡を取って何か話をしている。
そして、この際の会話を読み解くことで、周防名人の背景が朧げに浮かび上がってくる。元々小声という設定であり、台詞の文字そのものが小さく書かれているため、それぞれ抜き出しておく。
え
わからん?
わからんて
パソコンくらい
できるやろ?
となりの
今道さんちの
おじちゃんに
聞いて...
え?
どんと焼きに
行っとう?
もー
いい
(同書23ページ。)
え
ニコ動
はいったけど
すぐ
はいれなくなる?
はじき
出される?
プレミアム会員て
ゆーのがあって......
プレ...
プ...
..................
..................
..................
..................
..................
もーいい......
(同書72〜73ページ。)
それで
いまは
見れとうと?
......
正兄ちゃん
飲んどう?
いま
消防団の
集まり?
............
............ゆ
兼子ちゃんは......*1
家でのんびり
テレビば
見よったごたー*2
うち
60インチの
買うたとぞ!
............
............
もういい.........
60インチの
買うたけど
真ん中の
30センチ角
くらいやって
兼子ちゃん
見えとうの
(同書117〜118ページ。)
これらの台詞から判ることは、
- 周防名人は「兼子ちゃん」という人物を気に掛けている
- 電話先の相手に、ニコニコ動画にアクセスさせようと試みている
- その「兼子ちゃん」は、目の病気か何か(恐らくは緑内障、或いは糖尿病網膜症。理由は後述)で、視界が非常に狭くなっている
という点である。
この3点のうち、「兼子ちゃん」については、恐らくは周防名人の母親か祖母、或いはおばにあたる人物であろうと思われる。上に挙げた画像のうち、118ページに僅かに回想シーンがある。幼少期の周防名人の後ろにいる人物である。そしてそれは、24巻本編最終166ページに後ろ姿だけ描かれる女性と同一人物だ。
お菓子類をこたつに大量に用意して、名人戦の中継を待つ女性。
どうやら甘いものが大好物らしいことが窺える。そしてそれは、周防名人が甘いもの好きで、事あるごとに(かるたの選手に対し)お菓子類を振る舞っていたことと無関係ではない。周防久志という人物の人格形成に、大きな影響を与えたと思われる人物だ。
また、「兼子ちゃん」も周防名人のかるたを誰よりも楽しみにしている。それは上に挙げた画像、テレビの横に大量にトロフィーが並べられていることからも窺い知ることができる。
そして余談にはなるが、先程挙げた3点のうち、「兼子ちゃん」の視界が非常に狭くなっている点、これは緑内障か糖尿病網膜症の可能性が高いと思われる訳だが、甘いもの好きがこの症状の進行を早めているのかもしれない。
周防久志は、この女性にどうしても自分の試合を見て欲しいのだ。
それ故に、試合の合間を縫って電話をして、ニコ動に繋げようと試みているのだ。
何故なら、今回の名人戦・クイーン戦からは、TVでの中継がなくなっているからだ。
名人・クイーン戦の前、秋頃に千早と太一が周防名人の許へ練習試合に行った際の一場面。大学かるた部の後輩から、名人戦の生放送がなくなったことを知らされた周防名人は、半ば放心状態になる。
その後すぐ、ニコニコ動画で生放送をすると聞いて周防名人のテンションは快復する訳だが、「兼子ちゃん」に自らの試合を見せることが、名人のモチベーションに繋がっていることが、24巻まで読み進めることにより朧げに見えてくるのだ。
西日本予選を見に来た帰り、近江神宮で参拝した際に若宮詩暢が周防久志に向けて放った問い掛け。それに対し周防名人は「なんにも?」と答えるが、それを聞いた若宮詩暢は「うそつき」と喝破する。*3
真の答えは、「兼子ちゃん」の存在だ。
原田先生は「君とちがって 喜ばせたい人間が おるんだ」と言っているが、周防名人にも喜ばせたい人間は存在する。ただ韜晦して、誰にもそれを語らないだけだ。
5連覇して、永世名人として引退。その姿を「兼子ちゃん」への贈り物としたい。
そして恐らくはこの名人戦が、その姿を見せられる最後のチャンスなのだ。
先程触れた練習試合において、千早が気付いた周防名人の「弱点」。
それがこの巻で明かされる。
「兼子ちゃん」の目の病と同じ症状が、周防久志その人にも襲い掛かっている。
初登場時*4から、平時は常にサングラスを掛けていたのも、伏線のひとつかもしれない。
今後、視界は更に狭まっていく。どこに何の札が置かれているのか、次第に判らなくなってくる。稀代の「感じの良さ」を持つ周防名人であっても、それはあまりにも致命的である。
周防名人に残されている時間は、決して多くはない。
それ故に、5連覇してそのまま引退という決断を下した筈なのだ。
その姿を見てもらいたいが為に、何度も電話をしては、ニコニコ動画を繋いでもらうように働きかける。
わざと負けた理由を問われ、「これで最後かと思ったら 長く座っていたくなって」と答えたのもやはり韜晦である。
試合時間を可能な限り伸ばすことで、「兼子ちゃん」が自分の姿を目にする可能性を増やそうとしているのだ。
時間があれば何とかしてニコニコ動画に繋げることができるかもしれないし、試合が長くなれば例え僅かであってもTVで中継されるかもしれない。
そこに立ちはだかる原田先生。
原田先生は、千早から聞いた周防名人の「弱点」を、相手の視界の狭さを利用した戦術を組み立て、用いてくる。臨床医学の書籍まで読破しての、徹底した研究を行っている。原田先生の本職が「医者」であるという設定が、ここで活きてくる。
周防久志の顔に、一滴だけ汗が浮かんでいる。
記憶している限りでは、周防久志が試合中に汗を浮かべる描写は、この場面が初となる。
この汗は疲労によるものではなく、焦燥によるものだ。
果たして周防名人は、この最大の危機に如何に対峙するのか。それは恐らく、次の巻で描かれる筈である。
幾つもの伏線・布石が、この巻で収斂してきている。
そしてそれが、周防久志という人物の物語を造り上げているのだ。
故にこの巻の真の主役は、周防久志なのである。