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西宮硝子の聴く世界:大今良時『聲の形』第51話の表現について

もう1ヶ月近く過ぎてしまいましたが、先月『聲の形』最新6巻が発売されました。


聲の形(6) (講談社コミックス)

聲の形(6) (講談社コミックス)


いじめ・聴覚障害といった非常に重い題材をテーマとした作品です。昨年春でしたか、読切版が非常に話題となり、夏頃に連載版がスタート。
連載はもうそろそろ結末を迎えるようで、クライマックスを迎えていると言ったところです。


耳が殆ど聴こえない少女・西宮硝子と、彼女を率先していじめていたものの後にいじめられる対象となる少年・石田将也の2人が軸となり、彼らと関わる友人たちの人間関係が描かれる作品です。


あまり事細かに書いてしまうとネタバレになってしまうので避けますが、5巻の最後である「事件」が発生します。そしてそれが原因となり、6巻の序盤で石田は意識不明の重傷を負う。この巻においては、彼の周囲の人物(友人)たちの姿に焦点が当てられます。
6巻には第43〜52話が収録されていますが、うち第46〜51話のタイトルは、石田の友人たちの名前となっています。そしてそれぞれの回において、タイトルに冠された人物の視点で、彼(或いは彼女)の心理・苦悩・想いが綴られていく訳です。
これによって、物語に深み・厚みが生まれているとでも言いますか。


とりわけ、第51話「西宮硝子」が凄い。
耳が殆ど聴こえない彼女の視点を、かなり特異な表現で描いています。今回はこれについてちょっと書いてみようと思います。


実を言うとこの表現については、漫棚通信ブログ版さんが既に鋭い言及を行っているのですが、自分はもう少し事細かに書いてみようかと。

まず前提として、西宮硝子は殆ど声が聴こえない、というのがあります。完全な無音ではありません。何巻だったかはちょっと失念しましたが、確か硝子の妹・弓絃がそんな説明をしていたと記憶しています。
そのうえで、まずはこの画像を。



大今良時聲の形』152ページ。)


先述の「事件」絡みで、硝子が現場に来た警官から質問をされている場面になります。
ぱっと見では、何を言っているのかは殆ど判らないかもしれません。
この台詞は、ひらがなを元にしています。
正確には、ひらがなの両端を削り取った文字です。上のコマを解読すると、以下のようになります。

きみ
なまえあー?


なんかい
おこぉ?


なぃがー
あったか
ちぃってう?


これを更に訳すとこうなりますね。


名前は?


何階
の子?


何が
あったか
知ってる?


硝子は単純に声が聴き取るのが難しいのみならず、比較的聴き取りやすい音・聴き取りづらい音があるということも表現されています。基本的に子音は聴き取りづらい、破裂音は聴き取りづらい、といったことが伺えます。
それも踏まえて、次はこちらを。



(同書154ページ。)


作中では、石田の友人・永束友宏が中心となり、映画作りをしています。
数々の要因が絡まり製作は中断していたのですが、石田の「事件」をきっかけに映画作りを再開します。上のコマは、その再開した撮影が一段落した際の場面です。再び台詞を抜き出してみます。

かっおー!
みんぁ
おちゅかえー!


やっあぁ
やっお
かえぇ
うー!


みんあぁ
よかっあ
ぉー!


ながちゅかあん
きょうおぶん
おかちぃ
おおっえまえん
ぉー


同じく訳すとこうなります。
実を言うと4つ目の台詞はちょっと自信ないのですが、たぶんこれに近い内容だろう、と。

カットー!
みんな
お疲れー!


やったぁ
やっと
帰れ
るー!



良かった
よー!


永束さん
今日の分
お菓子
残ってません
よー


因みに1つ目の画像と2つ目とでの明確な違いは、フォントとコマ枠外の色ですね。
友人たちと、警官を始めとする見知らぬ人たちとのやりとりでは、会話の「温度」みたいなものが違うのかもしれません。あとコマ枠外の色については、2つ目が時間軸で言えば「現在」で、そこから回想している場面の枠外は黒く塗りつぶされています。
そして映画の撮影は石田や硝子の母校である小学校で行っているのですが、撮影後に硝子と小学校時代のクラスメート(且つ友人)の佐原みよこ・川井みきは、嘗て自分たちが勉強をした教室に足を運びます。
そこで硝子は、ちょっとした想像をする。
それは硝子の耳が聴こえ、必然的にいじめも起こらなかった世界です。家族の団欒も存在し、父親が家族を見捨てなかった世界。



(同書158ページ。)


このコマはそんな想像をしている際の一部分になります。
想像の場面においては、(西宮硝子視点での)現実の描写とは違い、文字の両端が削られていません。
しかし硝子自身が「声が聴こえる世界」では声がどのように聴こえるかが判らない故に、互いに会話を交わしているにも関わらず台詞はひらがなのみで、且つ様々な音が聴き取れない状態のままで表現されている訳です。
また、想像と現実がコマ枠線でも明確に区別されているのにも注目ですね。硝子が想像する、いわば理想的な世界の場面において、数箇所地続きで現実の場面が挿入されるのですが、現実のコマは綺麗な直線で描かれているのに対して、想像の場面のコマは手書きの、揺らぎがある線で描かれています。上に挙げたコマで言えば、横に3つ並んでいるコマのうち真ん中のコマだけ枠線が直線です。


西宮硝子の想像した「理想的な世界」は、実際には起こり得なかったのみならず、実のところ「声が聴こえていない」故に哀しい。
そのうえで、こちらのコマを。



(同書163ページ。)


石田将也と西宮硝子の会話。これは言わば心象風景に近いものなのですが、石田の台詞ははっきりとかたちとなって描かれている訳ですね。硝子が想像した「理想的な世界」での(小学生時代の)石田の台詞は聴き取れていなかったにも関わらず。


嘗ては硝子へのいじめを主導した石田が、いじめを受ける側になり、そして硝子が何を考えていたのかを理解できないままに別れることになる。それを後悔した石田は、その後の何年かをずっと、硝子という存在に向かい合ってきた訳ですな。
そんな石田の「声」が、他の誰の声よりも明確なかたちを取って、硝子には「聴こえて」いるということです。
この第51話は、この作品のタイトル『聲の形』を体現したかのようなエピソードだなと感じました。


そしてフォントの加工を始めとする技術、文字・台詞の使い方やコマの枠線の描き方といった技法、描いている主題・内容が密接に絡み合って生み出された表現は、まぁお見事であったと思う次第です。


恐らくは来月発売予定の7巻が完結巻となるかと思いますが、どのような決着を付けるのか。
期待して待とうと思います。
といったところで、本日はこのあたりにて。