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時折マンガの話をします。

日本マンガ学会のシンポジウムに行ってきました(第三部)

日本マンガ学会のシンポジウム、第三部のレポートです。
第一部・第二部のレポートはこちらからどうぞ。


注意:相当適当に書きなぐったメモと記憶を頼みに書いているので、実際の内容とはニュアンスが異なる箇所・或いは誤った認識をしている箇所が存在する可能性も少なからず存在します。あらかじめご了承ください。発言内容も正確な引用ではなく大意と考えて戴ければと。



【第三部:何を学び、何を見るか】


第三部で焦点となるのは、「マンガ家になる訳ではない人たちがマンガを学ぶ意味、或いはそのような人たちに教える意味は何か」。
司会・進行は藤本由香里さん。明治大学准教授ですね。明治大学の誘いを受け、筑摩書房は退社なさったようです。最近はこういう動向に疎くなりがちでいけませんね。マンガ評論家としても著名です。



最初の発言は宮本大人さん(北九州市立大学准教授)。
一般書籍だと、『マンガの居場所』だけでしょうか?やはり研究者ということで、専門誌とか紀要とかに掲載する論文が中心ということでしょうね。


マンガの居場所

マンガの居場所

  • 【一般大学での「マンガ」の扱い】:1990年代後半から、非常勤のかたちで1コマくらいならマンガの講義があってもいいのではないかという空気が生まれてきた。その状況は現在もほぼ同じ。
  • 【一般の大学でマンガを学ぶ意味・その1】:我々の思考にはマンガに縛られている面がある。例えば音の表現をマンガの擬音・オノマトペでしか表現できなかったりする。マンガを深く知ることで、逆にマンガから自由になる(マンガに縛られない思考をする)ことも可能になる。
  • 【一般の大学でマンガを学ぶ意味・その2】:マンガの歴史を学ぶことは、「現在」がどのような歴史の積み重ねから成り立っているかを知ることである。「現在を成り立たせている視点」を知ることは視点の相対化を得ることに繋がる。
  • 【一般の大学でマンガを教える意味・その1】:普通の(つまりマンガ家を目指している訳ではない)学生がどのようなマンガを読んでいるか、どのようにマンガは読まれているか。これはマンガ学部とかでは判りづらいことであり、読者論的にも非常に興味深い点でもある。
  • 【一般の大学でマンガを教える意味・その2】:マンガ研究の前提知識がない対象(一般の学生)に如何にしてその内容を伝えるか。マンガ研究を「開かれた」ものにする努力はマンガ研究の裾野を広げることにもなる。

続けては夏目房之介さん(学習院大学大学院教授)。
説明不要でありましょう。著作は何れも面白いですが、個人的にいちばん良かったと思う作品は『あの頃マンガは思春期だった』。


あの頃マンガは思春期だった (ちくま文庫)

あの頃マンガは思春期だった (ちくま文庫)

(実体験とマンガ読書体験が重なり合い、マンガの歴史を語ることにまでなっている1冊。名著です。)

  • 【何故大学から招かれたか】:正直なところ判らない(場内笑)。学習院には中条省平教授という、専攻はフランス文学だけど映画やマンガにも非常に詳しい方がいる。中条教授がマンガの講義を行った際非常に人気があったようだから、その流れで招かれたのかも。
  • 【マンガを学ぶ意味】:マンガは人生を豊かにしてくれるものである。意味・価値があるとするならばその点。


夏目房之介さんの発言は後半に印象深いものがあった(あと、このあたりになると疲れてきてメモが輪をかけて適当になってきている)のでこのあたりにて。
次の発言は、土屋恵一郎・明治大学理事。
本来の専攻は法哲学で、J・S・ミルとかベンサムとかを研究しておられるようですが、米沢嘉博記念図書館の設立や、サブカルチャーの研究も含めた新学部(国際日本学部)の発足等でも主導的な立場であられたようです。

  • 【新学部設立の経緯・その1】:新たに学部を創るのには非常に多くの手続、教員の承認が必要となる。では、何故大学側がマンガ・アニメを中心に据えて新学部を立ち上げることにしたか。
  • 【新学部設立の経緯・その2】:当然のように、反対意見も多くあった。「何故大学でマンガなどを教えるのか」。だが逆に「それでは何故マンガを教えてはいけないのか」と訊いてみると、誰も答えることができない。そして膨大な読者層と影響力を持つマンガを研究しないということがおかしい。
  • 【研究機関の必要性(?)】:マンガは日々増殖していく。それを持続的に維持し、語ることが出来る場所を確保する場所が必要。それを大学という場で担う。


その後も「マンガ研究機関」としての非常に規模の大きな構想*1をいろいろと語られ、非常に興味深い内容になっていました。


次いでの発言は古永真一さん(早稲田大学文学学術院非常勤講師)。
本来の専攻はフランス文学のようですが、BD(バンド・デシネ)にも造詣が深く、BDの講義をもしておられるとのこと。


線が顔になるとき―バンドデシネとグラフィックアート

線が顔になるとき―バンドデシネとグラフィックアート

(BD研究書の翻訳も行っておられるようです。)

  • 【フランス国内でのBDをめぐる状況】:フランスではBDの(アカデミックな?)研究が日本におけるマンガ研究より早い段階で為されていた。「BDは9番目の芸術」と呼ぶ向きもある。*2
  • 【「芸術」への反撥】:芸術と看做すことへの反撥も存在する。未訳だが、『純粋BD批判』という題名の痛烈な批判本もある。*3マンガは娯楽ではないのか、もっとお気軽に愉しむことのできるものではないのか、という主張が為されている。
  • 【BDの講義を行ってみて】:感想を求めたところ、一度日本のマンガに喩えて置き換えるのが面白く感じた。メビウス作品の感想に「(宮崎駿大友克洋荒木飛呂彦)÷3」というものもあった。*4


他にもいろいろと面白い話はあったのですが、メモがよく判らない状態になっているのと記憶が曖昧になりつつあるということでこのあたりにてご容赦願います。


その後のパネルディスカッションで印象に残っているものを幾つか。
主に夏目房之介さんの発言ですね。

  • 学生と接していて感じるのは、「自分にとってマンガ・アニメ等の周辺文化は何なのか」を知りたいという欲求を強く持っているということ。
  • だがジャンルが多様化し過ぎて、自らの立ち位置が判らなくなってきている。そして先端領域においては、ジャンルの線引きが崩れていく。それに合わせて、異なるジャンルを越境していこうとする流れと、ジャンルそのものを再定義しようとする動きも存在する。


そして最後に夏目房之介さんが仰ったのが、「大学でマンガを学ぶ・教えるという動きはマンガの衰退だと看做す意見も存在するが、その程度で衰退するほどマンガはヤワじゃない」。締めの言葉に相応しいものだったと思います。


・・・と、最後のほうはかなり端折った感じになってしまいましたが、このあたりで日本マンガ学会シンポジウムのレポート本編を終了とさせて戴きます。
番外編というか、こぼれ話みたいなものを追ってもう一つ作成予定です。

*1:その一端は、米沢嘉博記念図書館のサイトのQ&Aページで窺うことができます。

*2:一般的に「芸術」に分類されていたのは文芸・音楽・絵画・演劇・建築・彫刻・舞踊の7つ。20世紀初頭に映画が新たな芸術として注目されるようになり、「第8芸術」と呼ばれたりするようになったとか。それに次ぐ9番目ということ。

*3:カント『純粋理性批判』をもじった題名です。

*4:逆だろう!