マンガLOG収蔵庫

時折マンガの話をします。

自らの人生に向き合い、周りの人たちに支えられつつ、未来へと向かう。武田一義『さよならタマちゃん』

先日、武田一義さんの処女単行本『さよならタマちゃん』を読みました。


さよならタマちゃん (イブニングKC)

さよならタマちゃん (イブニングKC)


これは、素晴らしい作品でした。
武田一義さんの公式サイトと、『さよならタマちゃん』公式twitterこちら。

既に無駄話のトルド13さん(id:toldo13)が、優れた感想記事を書いておられますね。


既にこれほどのものが書かれた以上、改めて自分が書くまでも・・・と考えたりもした訳ですが、やはりこの作品については何か書いておきたい、書くべきだという思いもありましたので、自分なりの感想をしたためておきます。
結末も含め、少なからずネタバレをしてしまうので、読み進める際はご注意を。




まずは、作品の概略から。
さよならタマちゃん』は、マンガ家のアシスタントを長く務めていた作者・武田一義さんが35歳のときに見舞われた、ある病についての闘病記録です。その病とは精巣腫瘍
がんの発見から入院・手術、その後の抗がん剤治療、退院、そして闘病記の連載開始に至るまでの約1年間の体験と心理状況を、詳細に、真正面から描いた作品です。


術後の抗がん剤治療の副作用と、それとの闘いが、この作品の核のひとつ。



(武田一義『さよならタマちゃん』35ページ。)


副作用のひとつ、味覚障害により食べ物の味がおかしくなってしまう場面。
更には食欲不振、吐き気も襲い掛かる。そしてその日食べられたものが、翌日は身体が受け付けなくなる。副作用による体調の変化が著しい。
このような闘病の日々、「がん」という死に繋がる病との闘いの日々においては、*1自分のこれまでの人生を振り返ざるをえないのでありましょう。武田一義さんは、これまでのアシスタントとしての生き方を振り返ります。自分は、何らかの結論を出すことから逃げていただけなのではないか。そして、病床で武田一義さんはペンを握る。さよならタマちゃん』は、「マンガ家になる」という夢に向かい、再び歩き始める物語でもある。


これまでの人生を振り返るのは、武田一義さんひとりという訳ではありません。
同じ病室で、やはりがん治療を行っている人たちも、自らの過去を語ります。



(同書73ページ。)


前立腺がんの除去手術を受けた同室の患者・岡本さん。
彼の手術のときには、元妻と交際中の女性が立ち会いに来る筈でした。しかし来たのは元妻のみ。交際中だった女性からは、現実的なメールが届く。元妻は、手術を見届けた後、仕事へと戻っていきます。
がんになり、独り身であることに不安を憶える。しかし、嘗ての自分を振り返ると復縁を願い出ることはできない。一方で、術後の元妻の表情は、岡本さんの無事に心から安堵しているように(少なくとも、武田一義さんには)見えた。そのような、複雑な心境も描かれていきます。



武田一義さんには、病床の彼を支えてくれる人たちがいます。
彼の「師匠」、つまりアシスタント先の先生が、同僚のアシスタントと一緒に見舞いに来てくれる場面があります(因みに単行本の帯で明かされたのですが、その「師匠」とは、『GANTZ』の作者・奥浩哉さんです)。



(同書88ページ。)


がんの治療・長期入院のためにアシスタントの仕事ができなくなる。迷惑は掛けられないと、別のアシスタントを入れてくれと頼んだ武田一義さん。それに対し、他のアシスタントさんとも相談したうえで、全員で復帰を待つという決断をした奥浩哉さん。それでも固辞しようとした武田一義さんに対し、諭すように語った言葉。
GANTZ』は、非常に密度の高い作画が特徴に挙げられます。アシスタントが1人減るという状態は、全員に相当な負担があるであろうことが想像に難くない。
それでも「復帰を待つ」という決断をした奥浩哉さんたち。彼らの想いを受け止め、治療を続ける武田一義さん。静かな、それでいて震えるような感情が湧き上ってくる場面です。



しかし、どれだけの支えがあっても、苦しいときは苦しい。
抗がん剤治療の副作用は、容赦なく襲い掛かってくる。食べ物の匂いや空調の風、僅かな気温の変化、微小な他人の体臭にまで身体が反応し、吐き気が襲ってくる。近くの話し声・物音・TVの音声も耐え難い。極度のストレスに悩まされる日々が続きます。



(同書103ページ。)


誰よりも献身的に武田一義さんを支えてきた妻・早苗さんにまで、当たり散らしてしまうほどのストレス。心身共に最も苦しかったであろう時期の描写も、その時に抱いていた昏い感情も、隠すことなく詳細に描き綴っていきます。そして、その苦しい時期を、早苗さんと共に乗り越え、遂に抗がん剤治療を終える。安堵の涙を浮かべる二人。



しかし、苦難はそこでは終わらない。
仮に運命の神みたいなものが存在するとすれば、それはひどく残酷なものだろう、とか考えてしまいます。武田一義さんの身に、抗がん剤治療の後遺症が残る。
それは、手足に痛み・しびれ・感覚の鈍麻を起こす「末梢神経障害」。
自らの手が唯一にして最大の武器と言えるマンガ家という職業にとって、あまりにも過酷な障害です。それが発覚した箇所、182〜186ページの描写は痛々しく、苦しい。



それでも、武田一義さんは前へ、未来へと進もうとする。



(同書185ページ。)

ペンの持ち方を変えて、再び絵を描き始める場面。



(同書187ページ。)


新しい握り方は、しびれが残る手でも、ペンを持ち続けるための持ち方。
そして手にしているペンは、奥浩哉さんが、お見舞いに来た際にプレゼントしてくれたものです。
そのペンが、手からこぼれ落ちてしまわないように。
これまでの描き方を捨て去り、今できる描き方で、ひたすらに習練を重ねていきます。



(同書188ページ。)


そして描いたのは、自分を支えてくれた、家族の姿。
幾多の苦難に見舞われながらも、周囲に支えられつつ未来へと歩き出す、この『さよならタマちゃん』という物語が凝縮された場面と言えるかもしれません。



退院後も、経過観察は続きます。*2
それでも、この作品は間違いなく未来へと向かっているのだ、と感じさせてくれる場面があります。



(同書223ページ。)


嘗て、抗がん剤治療時には「泥の味」になってしまっていた食事。
この「おいしい」の一言が、静かに胸に迫ってくる。



そして、入院時に描いていたマンガを土台に、彫琢を重ねた『さよならタマちゃん』の連載が決定し、第1話が「イブニング」に掲載されたところで、この物語は締めくくられます。
最終話は、あらゆる感情が詰め込まれたような、深く、重く、且つ感動的な内容となっています。全話素晴らしいのは言うまでもないのですが、じっくりと読んだうえで、最終話へと進んで欲しいと思います(そしてその後にカバー裏箇所を)。




ところで、今回の記事を書くにあたって、半ば意図的に外した箇所があります。
それはやはり、実際に読んで戴きたいと思った箇所ですが、その中のひとつに、妻の早苗さんの描写があります。
そして、「早苗さん」は今なお、力強く夫(武田一義さん)を支え続けている。


武田一義さんの奥様のブログです。
さよならタマちゃん』の告知を、積極的に行っているのが判ります。
そして、今年の6月に、『さよならタマちゃん』と同じ掲載誌「イブニング」において、マンガ家としてデビューされていることも記されています。森和美名義、作品名は『おうちへかえろう』(読切)。


武田一義さんの今後のお仕事は勿論のこと、森和美さんの仕事にも注目していきたいですね。
といったところで、本日はこのあたりにて。

*1:精巣がんの五年生存率は90%、言い換えれば死亡率10%。

*2:今現在も、数ヶ月ごとに検査をしている模様です。