『へうげもの』調査報告:各話のページ数について
今月初め(10月2日)に旅行で京都に赴いた際、『へうげもの』に所縁のある場所を何箇所か訪れました。
それを機に全巻読み返してみて、実際の風景と近い箇所を引用してみたりもしたのですが、その際に気付いたことがあります。
殆ど全てのページが、外枠・断ち切りいっぱいまで使って描かれているのですね。
ページのいちばん端のところまで、絵が描かれている。コマ枠で区切られ、端が間白になっている箇所が非常に少ないのです。とりわけ、本の天地部分で顕著です。
比較してみましょう。
左が『へうげもの』1巻の地部分、右は比較のため本棚から引っ張り出した『ポーの一族 復刻版』1巻の地部分です。
断ち切りいっぱいまで使うと絵(印刷部分)が端までいくので、当然裁断箇所が黒くなる。つまりページ全体、端まで使って描けば描くほど、単行本の天地と小口(側面)部分は黒っぽくなっていきます。
それが意味するのは、ページにノンブルが振られないということです。
マンガ単行本のページ下部にはノンブル(ページ数)が記載されるのが慣習といえますが、それはページ下部が余白(間白)であることが条件ということもできます。作品(絵)を侵食してまで記載するということはまずありません。
『へうげもの』は殆どのページが断ち切りいっぱいまで絵を描いているので、必然的にほぼ全ページにノンブルが振られていない。第一席(第一話)の最初のページに「1」と振られているくらいでしょうか。
そしてそれが意味するところは、出典を記載する際に最初から数えないといけないということです。
自分はブログ記事で画像を使用する際、出典を必ず書くようにしています。作者名・作品タイトル・巻数・ページですね。作品に幾つかのバージョン(新装版・文庫版・愛蔵版 etc)がある場合はどの版か、記載が必要な場合は出版社・レーベルもですね。
このページ数というのが曲者でして、引用したいコマが何ページ目なのか、ちゃんと数えなければいけない訳です。一般的には、目次に第何話が何ページからかというのは記載されていて、そこから数えていくのですが、
『へうげもの』って、目次にもページ数の記載がないのですね。
従って、途中から数え始めることもできない。最初から数えないと、ページの特定ができない訳です。
まぁ、いつものことだなと淡々とページを数えていたのですが、実際に数えてみると実は思ったほど面倒ではないということが判りました。
どういうことかと言いますと、実に規則正しいのです。
10枚めくると1話、つまり1話20ページの回が非常に多いことが判ったのですね。手に取った巻では例外なくそうでした。
で、気になったので全話のページ数を数えてみました。٩( 'ω' )و
結果がこちらになります。
正直、驚愕でした。
全273話のうち、20ページではなかったのは第一席〜第三席、第九十二席、第百三十一席、第百五十七席、第百六十四席、第二百七十二席、第二百七十三席(最終話)の僅か9話です。
全25巻のうち、実に19巻が、「各話20ページ×11話+奥付4ページ(全224ページ)」で統一されているのですね。付け加えると、一服(1巻)は話数と奥付ページを調整することで224ページと、総ページ数が同じになっています。
ここから推測されるのは、まず「1話20ページ」を大前提としてストーリーを作り上げていったのであろう、ということです。そのうえで話の展開を考えつつ、構図やコマ割りを決めていく、という描き方をしていると考えられます。
見せ場や引きもしっかりと意識しつつ、20ページ以上にも以下にもならないように綺麗に収める、ということを約13年にわたり継続して行っていた訳ですが、これは途方もなく緻密な、驚嘆に値する行為ではないかなと思う次第です。
幾つか比較対象を。
左上から『MASTERキートン』『寄生獣(新装版)』『ゴールデンカムイ』、
左下から『惑星のさみだれ』『宝石の国』『3月のライオン』(すべて1巻)の目次です。
実際にページ数を確認して戴ければ判りますが、やはり回によって、ある程度はページ数の誤差が生じるのですね。
ここで視点を変えてみます。
これほど緻密に作り上げているなかで例外となっている回、つまり20ページ以上描いている回はどういう話が描かれているのか、ということです。
第一席〜第三席は物語の出だしといいますか掴みといいますか、重要であることは言を俟たない訳ですが、先述のように服(巻)全体でのページ数を調整していることから、もしかするとほんらいは20ページで収めたかったのかもしれないな、と感じたりもします。第二百七十三席、つまり最終話も、きっちり2話分40ページに収めていることから、ある程度計算尽くかもしれないですね。
それ以外、つまり第九十二席、第百三十一席、第百五十七席、第百六十四席、第二百七十二席は何が描かれた回か。以下のとおりになります。
- 第九十二席:千利休切腹(古田織部による介錯)
- 第百三十一席:豊臣秀吉死去(新日本ハウス)
- 第百五十七席:関ヶ原の戦い(気をやる徳川家康)
- 第百六十四席:小茄子の茶入(石田三成末期の数寄)
- 第二百七十二席:古田織部切腹(走馬燈で殴られ脱○)
最初の千利休切腹と織部による介錯の場面は鮮烈ですね。介錯を果たした古田織部の背を画面手前に、半身だけ見える配置で、奥には膝をついて織部に礼をする多数の武将が見開きで描かれる。見開きは二連続で描かれていて、一つ目の見開き(左端に織部の右半身が描かれる)では空に稲妻が光っていて、二つ目(右端に織部の左半身が描かれる)では雲間から陽光が差し込んでいる演出。
まさしく、この二連続見開きの分だけ、本編のページ数は多くなっています。
豊臣秀吉死去の回も、最初に読んだ際は驚愕しましたね。『へうげもの』という作品は戦国・安土桃山〜江戸時代を描く歴史物でありながら、現代の音楽を強く意識したタイトルを付けたりしているのですが、この回であの歌を使うのか!と。ギャグでやっているのかと一瞬考えるも、これまでに描かれた秀吉の生き様を思うとこの歌しか有り得ないという気もして、どう表現すれば良いのか判らないがとにかく凄い、そんな回です。
そしてこの回は『へうげもの』という作品全体の折り返しとも言える。織豊時代の終わりを告げると共に、次の回からは徳川時代の幕開けと言えます。それ故に、全体の約半分である十二服(巻)の最後の回で、豊臣秀吉の死は描かれなければならない。
全25巻中で唯一、この巻だけが12話収録されています。一冊につき11話、という基本フォーマットを崩してでも、この巻で織豊時代が終焉を迎えることで、作品じたいに締まりが生じたように感じます。
関ヶ原の戦いについては説明するまでもないかと。石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍が激突した天下分け目の関ヶ原。僅か半日で東軍勝利となったこの戦で、時代は大きく徳川へと傾く訳です。見どころは、気をやって解脱したかの如き表情を湛えた、家康の見開き大写しです。( ´ω`)
ひとつ飛ばして古田織部切腹の回も、主役である古田織部が描かれる最後の回である以上、ページ数が増えるのは必然と言えるかと思います。関ヶ原での徳川家康と対になっている、と見ることもできる演出ですね。( ´ω`)
そして、今しがた飛ばした第百六十四席、石田三成末期の数寄が描かれる回です。これまでに言及した回に比べると地味な印象を受けるかもしれません。ただ、個人的にはこの回、すごく良いのですよ。
石田三成の処刑が為された半月ほど後、近江の庄屋が古田織部を訪ねてきます。その庄屋・与次郎太夫は敗戦の将となった石田三成を匿い、捕縛寸前の三成から小茄子の茶入を託されます。その茶入は嘗て織部が三成に贈ったもので、割れてしまったものを三成の図案どおりに修繕したうえで、与次郎太夫はそれを織部の元へ持ってきた訳です。
その修繕された茶入を見た織部は、石田三成の意と共に、芽生えつつあった「ひょうげ」を自らが摘み取っていたことも知ってしまうのですね。その構図は、嘗て千利休が明智光秀謀殺に荷担することで、「わび」の芽を自ら摘み取ってしまっていたのと重なる。
豊徳合体へ動き出す古田織部の第一歩と共に、茶人としての業も描かれた名編なのです。
で、その修繕された茶入がこちら。
寸分違わぬ正確さで、わざわざ細かく割ってから金継ぎし直した茶入。
まぁこれはあくまで個人的な感想なのですが、読み返してこの茶入を見た際、この作品のようだなと感じた次第です。
例外は幾つかあれど、1話20ページという縛りをひたすらに積み重ねて稀代の名作となった『へうげもの』という作品と、度を越した正確さを貫ききることでひょうげに近付いた茶入が重なって見える。
いったいどのような心境でこの物語を描き続けたのだろうか、と考えてしまいますね。あじか売りを演じた徳川家康の如く必死の形相で描いていたのか、或いは古田織部のように笑いながら、それこそひょうげた様相だったのか、とか。
何れにせよ、『へうげもの』が類稀なる傑作であることは疑いようがありません。
未読の方は、是非ご一読戴きたく思います。
といったところで、本日はこのあたりにて。