九井諒子作品の技巧について
先日、九井諒子さんの最新刊となる『ひきだしにテラリウム』が発売されました。
- 作者: 九井諒子
- 出版社/メーカー: イースト・プレス
- 発売日: 2013/03/16
- メディア: コミック
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各所で絶賛された『竜の学校は山の上』『竜のかわいい七つの子』に続く、3冊目となる作品集です。web文芸誌「マトグロッソ」に連載された作品を中心に、33のショートショートが収録されています。
- 作者: 九井諒子
- 出版社/メーカー: イースト・プレス
- 発売日: 2011/03/30
- メディア: コミック
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- 作者: 九井諒子
- 出版社/メーカー: エンターブレイン
- 発売日: 2012/10/15
- メディア: コミック
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- MATOGROSSO(リンク先はお知らせページ。「マトグロッソ」はamazon 内で閲覧可能です。高野文子さんの新作も読めますよ。)
そしてこれが、実に良いのです。
ショートショートである以上当然ですが、何れの作品もほんの数ページ。10ページを越える作品は殆どありません。故にアイデア勝負となる訳ですが、九井諒子さんのアイデア・奇想の幅は実に広い。そして持ち味と言える、捻りの利いた物語・舞台設定もいかんなく発揮されています。
ただ、アイデアや奇想といった面ばかりに注目するのは片手落ちかな、とも。
九井諒子さんは、マンガという表現媒体の性質を熟知している。
そしてその特質を自在に使いこなしつつ、それを物語に奇麗に組み込んでいる。
まぁ、あくまでも私見ではありますが。
実に理論的且つ、職人的な面も持ち合わせているように思うのですね。
そして『ひきだしにテラリウム』に収録された作品には、今挙げた要素が明確に表れている(ように思える)ものが幾つも見受けられます。
という訳で今回は、幾つかの作品を引き合いに出しつつ、九井諒子さんの作品における技巧について徒然と書いてみようかと思います。
内容にもある程度触れますので、未読の方はご注意のほどを。
さて、先程「マンガという表現媒体の性質」と書きました。
その性質とは何ぞやと言いますと、「マンガとは記号的表現である」という点と言えましょうか。「事物を省略して表現している」と言い換えても良いかもしれませんな。どちらの表現にしろ、大雑把に過ぎるかもしれませんがね。(´ω`;)
それが端的に描かれているのが、そのものズバリ「記号を食べる」というタイトルのショートショート。
(九井諒子『ひきだしにテラリウム』87ページ。)
この作品、タイトルがほぼ全てを語ってしまっている訳なのですが、記号を料理して食べる話です。上から順に、「まる」「さんかく」「しかく」を食べています。料理の仕方から、「まる」は何か肉っぽいもの、「さんかく」は野菜っぽい何か、「しかく」は魚的な食べ物というのは判る訳ですが、結局のところそれは「まる」「さんかく」「しかく」でしかない。
しかしながらその記号、不味くはなさそうだったりもします。少なくとも、読んでいて「食い物らしい」という認識は為される。言うならばそれが「記号的表現」ってやつですかな。
それでいながら、記号に添えられている野菜の描写は、しっかりと野菜ですね。
「まる」の付け合わせとか、「さんかく」と一緒に煮込んでいるものとか、「しかく」の横にある大根おろしやキュウリの漬物とか。
絵の記号化の度合いっていうのは、大友克洋さんレベルの描写から極端にデフォルメされたものまで、当然のことながら個人差があります。で、九井諒子さんですが、記号化のレイヤーが非常に多いという印象があります。早い話が、たくさんの絵柄を自在に使いこなせる。過去作品を読むと、作品ごとに、その作品に適した省略・記号化をしているのが判ります。『竜のかわいい七つの子』に収録されている「狼は噓をつかない」とかが好例ですね。
そして、複数の絵柄を1つの作中で使い分け、しかもそれが作中で大きな意味を持っている例もあります。『ひきだしにテラリウム』収録作では、「えぐちみ代このスットコ訪問記 トーワ国編」がそれに該当します。
画像で挙げたページ、上段と下段で筆致がまるで異なるのが判るかと思います。因みに右上のコマの団子頭の女性と、左下のコマの女性は同一人物(えぐちみ代こ)です。
このショートショートでは、マンガ家のえぐちみ代こがトーワ国の観光をする話と、そのトーワ国のホテルで下働きとしてこき使われている青年の世知辛い日常と鬱屈した感情が、交錯して描かれます。
そして少なからず能天気なえぐち視点においては上段の絵柄、深刻さを湛えた青年視点においては下段の絵柄が用いられているのですね。この対照的な絵柄の差が、持つ者と持たざる者との明確な違いを表現する手段として使われている訳です。
更には、視点による絵柄の変更のみならず、キャラクター設定による絵柄の使い分け、という事例もあります。最も判りやすい例が、「ショートショートの主人公」でありましょう。
「マンガの主人公的な」一家の末子として生まれた少女は、ショートショートの主人公であった...という導入から始まるショートショートです。どのようなオチが付くのかは、是非ご自身の目でお確かめください。(´ω`)
そして上の画像では、一家の紹介が為されている訳ですが、父親・母親・姉・兄・主人公とで絵柄が違います。
父親は、1970年代半ば〜1980年代前半あたりの、少年マンガ的な絵柄。本宮ひろ志『男一匹ガキ大将』とか車田正美『リングにかけろ』あたりに近い感じですかな。
母親は、父親と同年代の「乙女ちっくマンガ」的絵柄。陸奥A子さんとか、太刀掛秀子さんとかかな?因みに作中では母親のみ、会話の際に形喩*1が使われていますね。
姉は1990年代後半〜2000年代前半のフィールヤング的な印象。兄は2000年代後半のライトノベル的。
マンガやライトノベルの歴史を踏まえたパロディとも言えそうです。
複数の絵柄を使いこなす九井諒子さんにとって、他の作家さんの絵柄を意図的に用いるパロディは親和性の高い表現かもしれませんな。
余談ながら、パロディの要素を用いずに、キャラクターの設定によって絵柄を変更しているのが『竜のかわいい七つの子』に収録されている「金なし白祿」と言えるかと思います。
さて、些か長くなったのでこのあたりで一区切りとしておきます。
奇想に溢れたアイデアのみならず、数々の技巧も凝らされている作品群なのだ、というのがある程度はお伝えできたでしょうか。
こういった面に注目して読むと、また違った面白さが見えてくるのではないかと思ったりします。
といったところで、本日はこのあたりにて。
*1:雲型のフキダシみたいなやつとか謎の線とか、感情表現で補助的に使われる記号です。